保土ヶ谷の見附と一里塚
東海道保土ヶ谷宿松並木復元計画も順調に進み、いよいよ詰めの段階に入りました。そこで、松並木と合わせて再現が予定されている、見附と一里塚について、再確認したいと思います。

そもそも、一里塚は建設当初一対造られた筈です。ところが保土ヶ谷では元禄の頃から一基の存在しか伝わっていません。また、保土ヶ谷の一里塚と次の品濃の一里塚の間隔は一里に足りません。 さて、何故でしょうか。

保土ヶ谷宿の歴史について調べるならば、保土ヶ谷本陣の文書が先ず第一に上げられます。保土ヶ谷郷土史の先学である磯貝正氏が、その文書を詳しく調査し、昭和13年に纏め上げた「保土ヶ谷区郷土史」から、見附と一里塚の節を掲載します。本編には、上記の疑問を解く鍵が秘められています。古い文章ですので、振仮名を付け、和暦を西暦に換算し、長さをメートル表示しました。
本編の前に、江戸時代の絵図で保土ヶ谷宿の見附と一里塚を見てみましょう。
↑東海道分間延絵図に描かれた保土ヶ谷宿江戸方見附
 ↑東海道分間延絵図に描かれた保土ヶ谷宿一里塚
↓東海道分間延絵図に描かれた保土ヶ谷宿上方(京方)見附と一里塚 拡大図
次に、お隣の神奈川宿の史料を見てみましょう。
【金川砂子(かながわすなご)】は、文政七年(1824)に煙管亭喜荘という人が、生麦から保土ヶ谷の入口まで、東海道沿道の風物を描き、神奈川宿の名所旧跡の由来や神社仏閣の沿革を表したものです。作者は「煙管亭」の名前の通り煙管(きせる)を商い、絵は素人だったそうです。

本書は、石野瑛著「武相叢書・金川砂子附神奈川史要」(昭和5年刊行)に収録されています。
金川砂子に描かれた保土ヶ谷宿江戸方見附
 金川砂子に描かれた神奈川宿江戸方見附
金川砂子に描かれた神奈川宿一里塚
 ↓ 神奈川町宿入口土居(=見附)絵図 神奈川県立公文書館蔵 (江戸時代:詳しい年代は不明)
保土ヶ谷区郷土史 上巻 磯貝 正著 (昭和13年3月刊行)
   第二部 歴史篇  第二門 徳川時代  第六章 街道概観 より
第二節 見附

既に述べたる如く保土ヶ谷宿は宿場町の特色として、裏町のない往還筋に沿うた細長い町で、東は芝生(しぼう)村境の追分から西は相州品野村・平戸(ひらど)村境まで往還の長さ四拾五町五拾間(約5Km)ある。従って保土ヶ谷宿と総称する時は以上の如く追分から境木までを含めて云ふのである。けれども人家の櫛比(しっぴ)して所謂(いわゆる)宿場としての機能を働かせてゐるのはその内の中央部に位する一部分で之を特に宿内(しゅくうち)と云うて居る。この宿内への両入口に道を挟んで土居(どい)が築かれたものである。之を見附と称するのである。そこで「天保十四年(1843)の往還筋取調書上帳」を見ると

芝生村境より 右品野村・左平戸村境迄 宿往還四拾五町五拾間之内

一宿内町並長拾九町
 内江戸ノ方土居より 字保土ヶ谷町曲リ角迄  南北拾四丁
 右曲リ角より 京之方土居迄            東西五丁

   但御朱印地御除地先共           (本陣文書八)

とある。右(上)記するところの土居が即ち見附であって、江戸寄りの見附から保土ヶ谷町の曲り角、即ち軽部本陣の前までが十四丁(約1.5Km)、本陣前から京寄りの見附までが五丁(約0.6Km)、併せて町並(ちょうなみ)十九丁(約2.1Km)といふわけである。

宿の役人が貴紳高官の送り迎へに出るのも、大名宿泊の建て札をするのもこの処であり、大名が下に下にの行列を整へるのもこの見附口から始めたのである。当宿の見附は惜しい事には明治年間に撤廃に帰してしまったが、現存する戸塚宿の見附などに徴(ちょう)すると、大体長さ六尺八寸(約2.1m)、幅四尺三寸(約1.3m)、高さ三尺六寸(約1.1m)位の大きさに切石で築立て、その上に赤松或は楓樹(ふうじゅ)等の樹木を植えて木柵を巡らしたものに類して居たものと思はれる。その位置は京寄りの方は外川仙人社(とがわせんにんしゃ)の前で、茶屋町(ちゃやまち)の町並が終り岩崎縄手(なわて)へかかる辺りにあったので、その附近には今外川神社の境内にある道祖神の祠もあったのであった。それから江戸寄りの見附は橘樹神社の東一丁(約109m)足らずの天王町三九一・三九三番地先(現在の天王町1丁目2番地付近)にあった。その辺りを里人は今でも「端れ(はずれ)」と称し見附の傍らの茶店を「端れの甘酒屋」と唱ふるなど昔の宿端(しゅくはずれ)であった事を物語って居る。ここから追分まで松原並木が続いて淋しい縄手となって居たことは、東西対照的であった。


第三節  一里塚

一里塚築造の年代に就(つ)いては諸書に載(の)する所、区々(くく=まちまち)にして、或は信長時代とし或は秀吉の時とし或は又秀忠、家光の時代とするものがある。けれども通説としては徳川家康が東海道・中山道・甲州街道・日光街道・奥州街道の所謂五街道を制定した後、里程の統一を図る為に慶長九年(1604)諸道に一里塚を築かしめたのに始まるとするのである。即ち慶長見聞集に、

常君(家康)の御時代に一里塚を築(つ)くべき由、仰せ出されたり。されば日本橋は慶長八癸卯の年(1603)江戸町割りの時節新しく出来たる橋なり。 (中略) 然るに武州は凡(およ)そ日本東西の中国(なかつくに)に当たれりと御定め有りて、江城(江戸城)日本橋を一里塚の元と定め、三十六町を道一里に積り、是 より東の果て西の果て五畿七道残る所なく一里塚を築(つ)かせ給ふ、年久しく治世ならず諸国乱れ辺土遠境(へんどえんきょう)の道狭く成る処に、曲(きょく)たる所をば見計い直(ちょく)に付け、道を拡げ、牛馬の蹄(ひづめ)の労(ろう)せざるやう(=よう)に、石を除き大道の両辺に松杉を植え、小河をば悉く(ことごとく)橋を掛け、大河をば舟や橋を渡し、日本国中民間往復の便りに供へ給ふ事、慶長九年(1604)なり、萬人喜悦の思ひを含み萬歳を願ひあえり、難有(ありがたき)将軍国王の深恩(しんおん)末代までもいかで是を仰がざらん。

とある。往来の旅人が街道の指導標ともし、又長い道中の憂さ晴らしにどれほど便益を得たことであらう。雨窓閑話の著者が、

これ誠に不易長久(ふえきちょうきゅう)の遠慮なり、今において往来の旅人歓ぶ事限りなし、其の並松(なみまつ)の間を行けば、 夏は日をよけ暑を凌ぎ、冬は風を除(の)け散して悩(なやみ)なし、その上一里塚と云ふものあれば、今一里々々と思ふ競ひ心の一図に、この塚を愉しみに道の捗り(はかどり)格別にして、遠近を計り行程の便にする事、天下の人の大(おおい)なる為なり

と讃へて居るのも過言ではない。

その大きさは「当代記」等に「一里塚五間(約9.1m)四方なり」とあるが、大体丸塚をなして居るもの故、直径でいふと先づ七八間位(約12~15m)、高さは一間半(約2.7m)から二間(約3.6m)位で、その上に所によっては松が植えてあるが、通常は榎(えのき)が植えてある。何故に榎を植えたかに就(つ)いては語り草がある。

(もと)より言ひ伝への事故(ことゆえ)、話の内容は多少異るが、落穗集、武徳編年集成などには、(こうじゅ)にはよい木を用ひよと下命(かめい)あったのを、大久保石見守長安が聞き誤って榎と合点したことによると云ひ、又東照宮御實紀附録に引用するところでは、

君関東へ移らせ給ひし後、同じく一里毎にを築き、その上に榎の木を植しめ給ふ。(このとき松の木植んと申上しに、餘の木を植よと仰せしを承り違ひて、榎の木をうへしといふ)

とあって、松は徳川氏が松平姓であるところから遠慮したといふことになるのであるが、大分穿ち過ぎた説であって、それよりも

榎は其の根深く広がりて塚崩れず、故に此の木を植しならん。

と論破した駿國雑志の説の方が餘程穏當な見解であると思はれる。

我が保土ヶ谷宿の中にも一ヶ所あった。位置は保土ヶ谷町の茶屋町橋の北寄りの袂(たもと)に近く、今で云へば原田久太郎氏邸に入る橋と外川社の参道にかかる橋との中間にあったのである。一里塚は通常往還を挟んで左右両側にあったものであるが、当宿のは早くより南側一つとなったと見えて、元禄三年(1690)絵師菱川吉兵衛の書いた東海道分間絵図に既に片側のみ記してあり、其の後の賓暦六年(1756)、同十二年(1762)、文政七年(1824)等の保土ヶ谷宿絵図に何れも南側のみ図示してある。而して又文政七年(1824)の村差出明細帳にも

壹里塚壹ヶ所東海道往還當町地内南側斗壹ヶ所有之榎立木御座候


少し読み易くしますと、
一里塚は一ヶ所 東海道往還当町地内の南側ばかり一ヶ所有って榎の立木に御座います。

と明記してある。それも早くから塚の形を損して居た様である。この一里塚は東へは神奈川区青木町の三宝寺門前の一里塚に続き、西は境木を越えた品野坂上なる一里塚に続くものであった。武蔵風土記所載の正保年中(1644~48)改定の橘樹郡の図に拠(よ)れば一里塚から境木まで二十九丁(約3.16Km)とあり、相模風土記所收の正保改定鎌倉郡圖に見ると品野一里塚から境木まで四丁二十五間(約0.48Km)とある。してみると保土ヶ谷・品野兩一里塚間の距離は合せて三十三町二十五間(約3.65Km)となり三十六町(約3.93Km)には二丁三十五間(約0.28Km)程足りないわけである。編者の調査によると他の一里塚の間の距離も皆区々(くく=まちまち)として一定して居らない。これには種々の事情があって、

  神社佛閣の御朱印地御除地や穢多非人の居る所などは里數に加算せぬ

場合が多く、その場合には距離が延びるわけであり、又

  坂路や難所のある地點

は気をきかして距離を短縮して居ると思はれる。この推定からしても権太坂や一番坂、二番坂等を控へたこの区間の距離が縮められて居るものと思はれる。

兎に角かうして旅人に大なる便益を与へた一里塚も江戸時代の語り草となってしまひ、明治二年(1869)十一月には正確なる里程の制度が設けられ、同四年(1871)には諸村に里程元標(りていげんぴょう)といふものが建てられることになり、我が神奈川県に於いても県庁脇のところに規準たるべき元標が建てられて、之に基き各地に元標が建設せられた。保土ヶ谷区内に於いては次の如く書上げられて居る。
里程書上
帷子町元標ヨリ岩間町元標迄
貳町五拾四間
316m
岩間町元標ヨリ神戸町元標迄
五町三拾五間三尺
610m
神戸町元標ヨリ保土谷町元標迄
拾六町五拾七間
1,849m
保土ヶ谷町元標ヨリ下星川元標迄 
三拾貳町三拾貳間
3,549m
下星川元標ヨリ和田村元標迄
拾壹町五拾六間
1,302m
和田村元標ヨリ佛向村元標迄
五町三拾三間
605m
佛向村元標ヨリ坂本村原標迄
三町五拾三間
424m
(編者注)上の表中、帷子町は現在の天王町、神戸町は現在の帷子町2丁目、
下星川は現在の星川、と考えられます。元標の位置については調査中です。

かくて一里塚も漸く(ようやく)邪魔物となり、明治九年(1876)特種のものを除き他は民間に払下げられてしまった。その時の布達を挙げると

第貳百六拾五號  各 大 區

各街道壹里塚之儀里程測定標杭建設濟之地方ニ限リ、古墳舊跡の類ヲ其儘壹里塚ニ相用 、或ハ大樹生往來並木ニ連接シ又ハ目標等ニ相成、自然道路之便利ヲナスモノ等ヲ除之 外、耕地ヲ□陰スルカ如キ有害無益ノ塚丘ハ總テ廢毀シ、最寄人民ヘ入札ヲ以佛下ケ候ニ付、壹ヶ所限取調近傍形況及ヒ反別等明瞭ニ相捌可申出旨相達候也

神奈川縣權令野村靖


少し読み易くしますと、

第265号  各 大 区

各街道一里塚の儀、里程を測定する標杭を建設済みの地方に限り、古墳旧跡の類をそのまま一里塚に用いたり、或は大樹になり往来の並木に連接し、又は目標等に成り、自然に道路の便利をなすもの等を除外し、耕地を翳陰(おういん)するが如き有害無益の塚丘(ちょうきゅう)は総て廃毀し、最寄の人民へ入札を以って佛下げるに付き、一ヶ所に限り取調べ、近傍の形況及び反別等を明瞭に捌(さば)き申し出るべき旨、通達するなり。

神奈川県権令(ごんれい)野村靖


現在往来を疾駆する自動車の埃に堪え兼ねて、之を厭ふが如く樹身を半ば今井川に喘(あえ)いで居る数本の老樹がある。傍らにあった一里塚の榎も現存すれば同じ運命に遭遇することであらうが、その形の存せざることは何としても郷土の史蹟を愛護する者にとって限りなき哀愁を覚えしめる。
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・・・ つづく ・・・