■さて、保土ヶ谷宿の範囲は、
江戸方面は追分
(現在の保土ヶ谷区と西区の境)から、
上方
(京都の方角)方面は武蔵国と相模国の国境である境木までとされました。
その中でも、本陣・脇本陣・問屋場・高札場・助郷会所・旅籠など宿場の施設がある区間を「宿内
(しゅくうち)」と云い、宿内の外れには、江戸寄り・上方寄りそれぞれに見付が設けられました。
江戸寄りの見付を江戸方見付と云い、現在の天王町一丁目に、
上方寄りの見付を上方見付と云い、現在の保土ヶ谷町二丁目にありました。
その見付の外側には松並木があって、
江戸寄りの松並木は現在の松原商店街付近に、
上方寄りの松並木は保土ヶ谷町二丁目付近から始り、
一部人家の在るところを除き、境木まで続いていました。
■それでは当時の絵図
(1800年代初頭)を見てみましょう。
① 江戸寄りの松並木
橘樹神社~松原商店街付近
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② 上方寄りの松並木
保土ヶ谷町二丁目付近
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③ 上方寄りの松並木
権太坂から境木方面
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④ 神明社参道の杉並木
通称:長大門 約300m
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■次に浮世絵を見てみましょう。
⑤ 北斎:富嶽三十六景 程ヶ谷
権太坂付近
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■ではここで、表街道から離れてしばし脇街道へ。
北斎が描いた場所は、権太坂二番坂付近(現在の光陵高校付近から境木にかけての坂)と考えられます。北斎は、街道から西の方、つまり富士山方面を向いて筆を起こしていますが、実は、反対の東の方も絶景だったのです。新編武蔵風土記稿・保土ヶ谷町の條に、
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【二番坂】權太坂の上にあり、同じ續きなれば江戸より往くときに一番坂二番坂とかぞへて呼びしなるべし、この所は、權太坂ほどにはあらざれどもよほどの坂なり、爰より望めば神奈川の海上を目の下に見て風景いと美なり、坂より相州の方境の地藏までは木いくらともなくならびたてり。
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つまり、二番坂付近から「 神奈川の海が眼下に見えた」とあり、当時は、西を向いても東を向いても景色の美しい場所だったことが判ります。 そしてその北斎は、神奈川の海を描いた「 富嶽三十六景・神奈川沖浪裏」なる素晴らしい作品を残しています。 と云うことは、「程ヶ谷」と「神奈川沖浪裏」の二枚の絵は、富士山に向かって同一線上に・・・
ものはついでです。北斎の「 富嶽三十六景・凱風快晴(赤富士)」もご覧ください。
さて、北斎を始めとする日本の浮世絵はヨーロッパの芸術家に多大な影響を与えました。
絵画では、モネ・ドガ・ピサロ・マネ・セザンヌ・ルノワール・ゴッホ・ゴーギャン ・・・
音楽では、ドビュッシー ・ラヴェル ・イベール ・レスピーギ・エルガー・ファリャ・・・
中でも ドビュッシーの「海」は、北斎の絵に触発されて作曲された、フランス印象派音楽を代表する傑作と云われています。音楽の代わりに楽譜の表紙を掲載します。そして、イタリアのレスピーギと言えば「ローマの松」がよく知られています。その中から「 アッピア街道の松」を紹介します。 アッピア街道は、ローマへ通じる道の中でも最も有名で「街道の女王」とも呼ばれるそうです。BC312に着工しBC295に完成。道幅は8m,全長は540kmに及び,その間に堤・橋・里程標などが設けられた、日本の東海道に相当する重要な街道です。写真を見ますと、ローマの松並木は、日本とはかなり趣が違います。下枝がなく傘の様な形をしている・・・ あれれ、いつの間にか表街道へ戻ってしまいました。
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■次に明治初頭に描かれた絵葉書を見てみましょう。
⑥ 明治時代の松並木
保土ヶ谷町二丁目付近
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⑦ 保土ヶ谷町:外川神社社頭
榎の大木と榎茶屋がみえます
この榎が一里塚の名残と考えられます
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⑥と⑦の二枚の絵葉書は、ちょっと不思議な色合をしています。一見写真に見えますが、当時カラー写真は無かったはずですし・・・ 1880年代、浮世絵の技法を応用して、モノクロプリントに鮮やかな色を付けた彩色写真が流行りました。そうした写真のことを「横濱寫眞(よこはましゃしん)」と呼び、主に外国人のお土産として人気を集めたそうです。
詳しくは「100年前の横浜・神奈川 絵葉書でみる風景」横浜開港資料館編 出版:有隣堂をご覧ください。(現在在庫切れだそうです。市内の各図書館で閲覧できると思います)
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保土ヶ谷宿の場合、街道の並木は東海道分間延絵図に描かれた通り、大部分は松でしたが、江戸名所図絵から、神明社の参道
(およそ300m)は杉並木であったことが判ります。また、明治初期の保土ヶ谷を紹介した絵葉書には、松並木や一里塚の名残と思われる榎の大木が描かれています。
①②③の松並木の内、現在残っている所は、③の権太坂の一部ですが、昭和8年に書かれた「保土ヶ谷めぐり」の一説に、
・・・話しに味が入ってる内に海道名残の並木へ来たぜ。全くいいなあ。此所へ来ると、北斎や広重の絵に魂のあったことが分る。然し最近は並木を少々ならず邪魔もの扱いにして、やれ道路改修のやれ地目変換のと目前の小利をふりかざして、歴史に古いこうした並木を惜げもなく伐採してしまう風になって来たから、実に残念な話だ。心ある土地では官民とも一致してこんな並木があれば、たとえ五六本でも保存に腐心している。ここでもどうかして何時迄もこの尊い遺物を保護し保存するように努められたいもんだ・・・・・
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とあります。
つまり保土ヶ谷では、昭和初期まで松並木が比較的良好な状態で残されていたことが判ります。ところが、先の戦争によって、保土ヶ谷の松並木に大きな変化がもたらされました。 「戦争末期、政府の命令で松根油
(松の根から採れる油)を供出するために、街道の松が次々と切り倒された」 と土地の古老から伺いました。
■保土ヶ谷宿が成立してから400年、松並木が消滅してから60年、そして保土ヶ谷区政80年、保土ヶ谷に松並木を復元する絶好の時期かもしれませんね。
それでは、今回の計画で復元が予定されている、松並木・見付・一里塚について、各地の現状を見てみましょう。
東海道五十三宿の内、大磯・舞阪
(まいさか)・新居・御油
(ごゆ)・赤坂・知立
(ちりゅう)を訪問する機会がありましたので、以下にその時の写真を掲載します。