は じ め に
現在、保土ヶ谷では「ヨコハマ市民まち普請事業」の一環として、国道一号
保土ヶ谷町付近で「東海道保土ヶ谷宿松並木復元計画」が進められています。
この事業は一般的な公共事業とは少し趣が異なります。地元の有志、市役所・区役所、そして地元の業者が、それぞれの知恵を出し合って協働で取り組む、いわゆる市民参加型の事業です。私もそのメンバーの一人ですが、「皆さまにお任せいたします」状態が続き心苦しく思っています。そこで、松並木復元計画の意味、特に「街道並木の歴史」を考えることによって、ささやかな応援をしたいと思います。

瀬戸ヶ谷中橋付近
岩崎ガード付近
瀬戸ヶ谷橋付近
(絵をクリックすると拡大します)
立体模型 制作:東海道保土ヶ谷宿松並木プロムナード実行委員会
街道並木の歴史
街道並木の歴史
我が国で、街道の並木について書かれた最初の行政文書は、天平宝字3年(759)に発せられた太政官符とされ、中国を見聞した東大寺の僧・普照法師の進言によって出来上がった制度と言われています。この太政官符は【類聚三代格巻七・牧宰事】に収められています。短い文章ですので以下に引用します。 
つまり、
 ・道路は百姓(=国民)の往き来が絶えません。
 ・道路の両脇に設けられた植樹帯は旅人の休息場所となります。
 ・樹があれば、夏は日陰を作って暑さ避けになります。
 ・植える樹種を果樹にすれば、
  非常時の食料として木の実を食することができます。
 ・そこで、城外の道路の両側に果樹を植えられますよう進言いたします。
とあります。

また、他の古典には、
 ・光明皇后が桃や梨の木を植えた。
 ・藤原京や平城京に柳や橘を植えた
 ・平安京には柳や槐(えんじゅ)を植えた。

鎌倉時代から室町時代にかけては、
 ・街道の整備とあわせ並木の植栽や保護育成を制度として行っていた。
 ・戦国時代には、織田信長が道奉行を任命し、
  東海道と東山道に松と柳を植えさせた。
 ・上杉謙信や加藤清正などの戦国武将らも街道に植栽を命じた。

徳川時代となってからはさらに重要な政策として取り組まれ、
 ・諸国の街道の改修をして広くなった道の両側に杉や松を主体に植栽した。
 ・道中奉行が任命され、街道の管理については厳格な定めの元に行われた。

等々の記述が見られます。

江戸時代に道中奉行から発せられた諸々の取締令が、【五街道取締書物類寄】という書物に収めらています。その中から、並木の管理について述べた一説を引用します。
   上の文中、三州宝飯郡(ほいぐん)白鳥村(しろとりむら)は、現在の愛知県豊川市白鳥町にあたり、
   東海道34番目の宿場・吉田宿と次の御油
(ごゆ)宿の中間に位置します。

上の引用文から、風で折れた木や根こそぎ倒れた木の処置について、及び木が枯れた場合の対応について、それぞれ厳しく定められていたことが判ります。また、当時から虫による松の被害が少なくなかったことも知られます。
              ↑ (今日の松枯れと同じ原因かとうかは不明)

次に、街道の道幅や並木敷地の幅について述べた一説を引用します。
つまり、「街道の道幅は二間から三・四間(3.6m~7.2m)、並木敷地の幅は9尺(2.7m)程度、とするのは目安であって、実際には決め難い」 とあります。

我が国では、古代の一時期、街道の規格が厳格に定められ、地形に関係なく等幅で一直線の道が造られたと伝えられますが、江戸時代はかなり緩やかな取り決めだったようです。

ですから、この度の「松並木復元計画」に於いては、現地の状況に合わせた無理のない設計であっても、決して江戸時代の街道規格から外れることはなさそうです。(少し安心できますね)

街道の並木整備に関する法令は江戸期を通じて度々発令されました。つまり、幕府の命により全国一律に植えられたのではなく、幕府の奨励や諸藩の努力によって少しずつ拡大し、やがて北は松前から南は鹿児島まで全国各地に及んだものと考えられます。

また、当時植えられた並木の種類は、松・杉・檜・槻・榎・柏・樅・桜・柳などから雑木類にいたるまで様々だったようです。
保土ヶ谷宿の松並木
さて、保土ヶ谷宿の範囲は、
 江戸方面は追分(現在の保土ヶ谷区と西区の境)から、
 上方(京都の方角)方面は武蔵国と相模国の国境である境木までとされました。

その中でも、本陣・脇本陣・問屋場・高札場・助郷会所・旅籠など宿場の施設がある区間を「宿内(しゅくうち)」と云い、宿内の外れには、江戸寄り・上方寄りそれぞれに見付が設けられました。
 江戸寄りの見付を江戸方見付と云い、現在の天王町一丁目に、
 上方寄りの見付を上方見付と云い、現在の保土ヶ谷町二丁目にありました。

その見付の外側には松並木があって、
 江戸寄りの松並木は現在の松原商店街付近に、
 上方寄りの松並木は保土ヶ谷町二丁目付近から始り、
 一部人家の在るところを除き、境木まで続いていました。

それでは当時の絵図(1800年代初頭)を見てみましょう。

 ① 江戸寄りの松並木
     橘樹神社~松原商店街付近
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      拡大図と現在の地図と比較できます
 ② 上方寄りの松並木
    保土ヶ谷町二丁目付近
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 ③ 上方寄りの松並木
    権太坂から境木方面
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      拡大図と現在の地図と比較できます
 ④ 神明社参道の杉並木
    通称:長大門 約300m
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次に浮世絵を見てみましょう。

 ⑤ 北斎:富嶽三十六景 程ヶ谷
    権太坂付近
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ではここで、表街道から離れてしばし脇街道へ。
北斎が描いた場所は、権太坂二番坂付近(現在の光陵高校付近から境木にかけての坂)と考えられます。北斎は、街道から西の方、つまり富士山方面を向いて筆を起こしていますが、実は、反対の東の方も絶景だったのです。新編武蔵風土記稿・保土ヶ谷町の條に、


【二番坂】權太坂の上にあり、同じ續きなれば江戸より往くときに一番坂二番坂とかぞへて呼びしなるべし、この所は、權太坂ほどにはあらざれどもよほどの坂なり、爰より望めば神奈川の海上を目の下に見て風景いと美なり、坂より相州の方境の地藏までは木いくらともなくならびたてり。


つまり、二番坂付近から「神奈川の海が眼下に見えた」とあり、当時は、西を向いても東を向いても景色の美しい場所だったことが判ります。 そしてその北斎は、神奈川の海を描いた「富嶽三十六景・神奈川沖浪裏」なる素晴らしい作品を残しています。 と云うことは、「程ヶ谷」と「神奈川沖浪裏」の二枚の絵は、富士山に向かって同一線上に・・・
ものはついでです。北斎の「富嶽三十六景・凱風快晴(赤富士)」もご覧ください。

さて、北斎を始めとする日本の浮世絵はヨーロッパの芸術家に多大な影響を与えました。
 絵画では、モネ・ドガ・ピサロ・マネ・セザンヌ・ルノワール・ゴッホ・ゴーギャン ・・・
 音楽では、ドビュッシー ・ラヴェル ・イベール ・レスピーギ・エルガー・ファリャ・・・
中でもドビュッシーの「海」は、北斎の絵に触発されて作曲された、フランス印象派音楽を代表する傑作と云われています。音楽の代わりに楽譜の表紙を掲載します。そして、イタリアのレスピーギと言えば「ローマの松」がよく知られています。その中から「アッピア街道の松」を紹介します。 アッピア街道は、ローマへ通じる道の中でも最も有名で「街道の女王」とも呼ばれるそうです。BC312に着工しBC295に完成。道幅は8m,全長は540kmに及び,その間に堤・橋・里程標などが設けられた、日本の東海道に相当する重要な街道です。写真を見ますと、ローマの松並木は、日本とはかなり趣が違います。下枝がなく傘の様な形をしている・・・ あれれ、いつの間にか表街道へ戻ってしまいました。

次に明治初頭に描かれた絵葉書を見てみましょう。

 ⑥ 明治時代の松並木
    保土ヶ谷町二丁目付近
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 ⑦ 保土ヶ谷町:外川神社社頭
    榎の大木と榎茶屋がみえます
     この榎が一里塚の名残と考えられます
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⑥と⑦の二枚の絵葉書は、ちょっと不思議な色合をしています。一見写真に見えますが、当時カラー写真は無かったはずですし・・・ 1880年代、浮世絵の技法を応用して、モノクロプリントに鮮やかな色を付けた彩色写真が流行りました。そうした写真のことを「横濱寫眞(よこはましゃしん)」と呼び、主に外国人のお土産として人気を集めたそうです。
詳しくは「100年前の横浜・神奈川 絵葉書でみる風景」横浜開港資料館編 出版:有隣堂をご覧ください。(現在在庫切れだそうです。市内の各図書館で閲覧できると思います)

保土ヶ谷宿の場合、街道の並木は東海道分間延絵図に描かれた通り、大部分は松でしたが、江戸名所図絵から、神明社の参道(およそ300m)は杉並木であったことが判ります。また、明治初期の保土ヶ谷を紹介した絵葉書には、松並木や一里塚の名残と思われる榎の大木が描かれています。

①②③の松並木の内、現在残っている所は、③の権太坂の一部ですが、昭和8年に書かれた「保土ヶ谷めぐり」の一説に、


・・・話しに味が入ってる内に海道名残の並木へ来たぜ。全くいいなあ。此所へ来ると、北斎や広重の絵に魂のあったことが分る。然し最近は並木を少々ならず邪魔もの扱いにして、やれ道路改修のやれ地目変換のと目前の小利をふりかざして、歴史に古いこうした並木を惜げもなく伐採してしまう風になって来たから、実に残念な話だ。心ある土地では官民とも一致してこんな並木があれば、たとえ五六本でも保存に腐心している。ここでもどうかして何時迄もこの尊い遺物を保護し保存するように努められたいもんだ・・・・・


とあります。

つまり保土ヶ谷では、昭和初期まで松並木が比較的良好な状態で残されていたことが判ります。ところが、先の戦争によって、保土ヶ谷の松並木に大きな変化がもたらされました。 「戦争末期、政府の命令で松根油(松の根から採れる油)を供出するために、街道の松が次々と切り倒された」 と土地の古老から伺いました。

保土ヶ谷宿が成立してから400年、松並木が消滅してから60年、そして保土ヶ谷区政80年、保土ヶ谷に松並木を復元する絶好の時期かもしれませんね。

それでは、今回の計画で復元が予定されている、松並木・見付・一里塚について、各地の現状を見てみましょう。

東海道五十三宿の内、大磯・舞阪(まいさか)・新居・御油(ごゆ)・赤坂・知立(ちりゅう)を訪問する機会がありましたので、以下にその時の写真を掲載します。
大磯宿の松並木
撮影:H17.9.27


水仙ロード
大磯ルネッサンス03 会報から転載
国道一号・大磯東小磯付近 ↑↓
【東海道の松並木】 江戸時代、幕府は東海道を整備して松並木、一里塚、宿場をもうけ交通の便を良くしたので、参勤交代や行商、お伊勢参りなどに広く利用されました。松並木は、今から約400年前に諸海道の改修のときに植えられたもので、幕府や領主により保護され約150年前ころからはきびしい管理のもとに立枯れしたものは村々ごとに植継がれ大切に育てられてきたものです。 この松並木は、このような歴史をもった貴重な文化遺産です・・・
                                    環境省・神奈川県  (案内板より)
   
各所に洒落た案内板あります
防虫剤注入済証
見附や傍示杭の絵が参考になります
熱心なボランティアによって支えられています
滄浪閣:旧伊藤博文邸前の大木(ムクノキか?)
松の切株 直径90~100cm
舞阪(まいさか)宿の松並木~新居宿
撮影:H16.11.30
舞阪宿の松並木  全長700m 合計約300本 
真新しい薦巻き
舞阪宿脇本陣 玄関から中庭を見る
舞阪宿江戸方見付  左右の大きさが違います  新居関所と同じ石材が使われています
[史跡 見付石垣] この石垣は舞阪宿の東はずれに位置している。石垣の起源の詳細は明かでないが、宝永6年(1709)の古地図には既に存在している。見付は見張所にあたり、大名が通行の時などには、ここに六尺棒を持った番人が立ち、人馬の出入りを監視するとともに、治安の維持にあたった所である。          舞阪町教育委員会 (案内板より)
   
新居関所 立派な松です 樹齢は300年近いそうです
新居宿旅籠:紀伊国屋
新居城ではありません 消防団器具置場です
御油(ごゆ)宿の松並木~赤坂宿
撮影:H16.11.29
御油宿の松並木 木陰に掃除のお婆さんが・・
街道一の松並木では
木洩れ日が美しい
松の落葉の上を歩くと絨毯のよう
天然記念物指定の碑  碑文は ↓
御油宿の町並
[天然記念物 御油ノ松並木]  この松並木は、慶長9年(1604)、徳川家康が植樹させたもので、以来、夏は緑陰をつくり、冬は風雪を防ぎ、長く、旅人の旅情をなぐさめてきました。当初600本以上あった松は、長い歳月の間に減少しましたが、旧東海道に現存する松並木のうちでは、昔日の姿を最もよく残すものとして、第二次世界大戦中の昭和19年11月7日、国指定の天然記念物となりました。私達は、この松並木が貴重な国民的財産であることを自覚し、後世に伝えるため “郷土の宝” として愛護しましょう。                (碑文より)

赤坂宿旅籠:大橋屋  現役の旅館
赤坂宿のシンボル的な燈籠
知立(ちりゅう)宿の松並木と一里塚
撮影:H16.11.29
知立宿の松並木   市指定文化財(名勝)
【知立松並木】 慶長9年(1604)江戸幕府は諸国に対し、五街道へ一里塚と並木を設置することを命じた。この知立の松並木は、幅7m、約500mにわたり凡そ170本の松が植えられている。側道を持つのが特徴で、この地で行われた馬市の馬を繋ぐためとも推定されている・・・
                                    知立市教育委員会  (案内板より)

知立宿 来迎寺一里塚 (江戸から83番目)   愛知県指定文化財(史跡)  昭和36年7月8日指定
【来迎寺一里塚】・・・塚の上の樹木は主として榎が植えられたが、この塚は代々、といわれる。この大きさは直径11m高さ3mに土を盛り、街道の両側に造られている。この塚のように両塚とも完全に遺されているのは、大へん珍しい・・・ 知立市教育委員会 (案内板より)