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PDF・由緒訳文
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PDF・由緒原本
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一般に神社の由緒はよくわからない例が多いのですが、神明社には「武藏國榛谷御厨庄之内神戸御神明濫觴(らんしょう)之事」という難しい表題の由緒書が伝わっています。戦国時代の天文24年(1555)に書かれた文書です。上杉謙信と武田信玄が川中島で戦っていた時代です。文書の内容は、神明社の由緒を述べつつ、失われた社領を再び認めてもらえるよう領主への取り次ぎを願い出たものです。宛て先は奉行所になっています。伊勢地方の地勢を知らなければ書けない内容になっていますので、申請者は伊勢神宮ゆかりの神主と考えられます。

この文書の中に「下保土ヶ谷」という地名が出てきますが、これが歴史上最初に現れる「保土ヶ谷」とされています。かな文字では「ホトカエ・ホトカヘ」が明応3年(1494)の文書に出てくるそうです。

むかし「保土ヶ谷」か「程ヶ谷」かで論争がありました。江戸時代は両方使われていたのですが、明治20年に「ほどがや駅」ができる時、どちらかに決めなくてはなりませんでした。その決め手になったのが、この文書に出てくる「保土ヶ谷」だったそうです。

なお、原本は「旭区善部町 和田家文書」として神奈川県立公文書館に寄託されています。希望すれば誰でも閲覧できます。ただし本欄に掲載した文書は原本のコピーではなく、中世文書に詳しい書道家・木葉疎水氏の書写によるものです。