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桜ヶ丘の歴史と桜並木
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桜ヶ丘の桜はいつ頃だれが植えたのでしょうか。
歴史を知れば愛着が沸きます。
では先ず、昭和初期の桜ヶ丘の写真と旅行案内図を見てみましょう。
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昭和初期の桜ヶ丘
「保土ヶ谷区郷土史」より・S13
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「神戸櫻」とあります
「東京から日帰り一二泊名勝旅行図」より・S10
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昭和初期の桜ヶ丘一帯字名
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桜ヶ丘の歴史を語るとき、当時の字名 (あざな)について避けて通ることはできません。地名は文章で表現するより図で示した方が分かり易いですから、「 横浜市土地宝典 保土ヶ谷区之部 修修:横浜土地協会 (昭和6年10月発行)」を元に、桜ヶ丘一帯の字名図を作成しました。
昭和初期
の町名
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図中の表示
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現在の町名
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略称
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配色
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昭和初期の字名
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神戸上町
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神上
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紫系
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西富士見坂・月見台・紅葉台・富士見台
谷原・市ヶ原・雲雀(ひばり)ヶ岡・初音ヶ岡
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月見台・桜ヶ丘
初音ヶ丘
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神戸下町
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神下
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緑系
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東富士見坂・芝ヶ谷・宿後・廣町(ひろまち)
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神戸町・月見台
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保土ヶ谷町
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保
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灰系
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霞ヶ岡・内屋敷・櫻ヶ岡・紅葉谷・
烏子(からすこ)・谷原・稲荷・岩崎・薬師堂
後谷・神奈川坂・鴬谷(うぐいすだに)
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霞台・岩崎町
初音ヶ丘
保土ヶ谷町
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星川町
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星
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赤系
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旭ヶ岡・加賀山・桜道(さくらみち)
花溝(はなみぞ)・明神・宮下・大久保
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星川・明神台
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天王町
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天
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茶系
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神田
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天王町
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仏向町
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仏
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茶系
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向原
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仏向町
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*図中、赤色の道路に桜並木がありました。 図をクリックすると拡大します。
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*お断り:一部の字境界が不明です。大凡の図としてご覧ください。
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「保土ヶ谷区郷土史」 第四部 第十章 名所 「櫻ヶ丘」
著者:磯貝 正 発行:昭和13年3月
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桜ヶ丘について書かれた諸本の中でも「保土ヶ谷区郷土史」は最も詳細に書かれ、他の追随を許しません。少し長い文章ですが是非お読みください。
・仮名遣いや旧漢字を改めて読み易くしました。
・難しい熟語には、振仮名や簡単な註釈を付けました。(小文字表記部分)
・見出しは編者が付けました。
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桜ヶ丘の沿革
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保土ヶ谷区内に、正しい名称の方が、かえってよく世間に通っていて、遂にそれが真の名称であるかのようになってしまった所が二つある。その一つは常磐園なる岡野公園で、他の一つはこの桜ヶ丘である。共にその開拓者が保土ヶ谷の偉人故岡野欣之助氏であることも、また以て不思議であるといわねばならぬ。
いったい桜ヶ丘なる名称は、公の土地台帳の字名 (あざな)にはないのである。(桜ヶ岡というのは保土ヶ谷町の中にあるが場所が全然ちがう )又それが何人の命名だかもはっきりしていないが、今は立派な通称となってしまって、誰もよく知っており、又よく使われている。桜ヶ丘駐在所という官署の標札さえあるのだから、公にもまたすでに認められていることもわかる。 (この文章が書かれた2年後の昭和15年、保土ヶ谷町・神戸町・星川町の一部より桜ヶ丘の町名が新設された)
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桜ヶ丘の立地
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とにかく、神戸上町、神戸下町、及び星川町の一部より成るこの高台を、桜ヶ丘なる名によって統一したのは頗る (すこぶる)便利でそして又都合のよいことがある。始めてここに来る人が、ためしに下町の方、星川町旭ヶ岡と尋ねたら、先づ大抵は麦酒工場 (現在のYBP)先の星川の方を教えられるだろう。又神戸上町富士見台と聞いても、やはり下の神戸上町を歩かせられるであろう。これを先ず桜ヶ丘とたずねてから、この丘を教えられ、ここにのぼって来れば、あとは加賀山でも、富士見台でも、はたまた旭ヶ岡でも、その町名と地番によって容易にその所在を知ることが出来る。つまり桜ヶ丘の名が、この丘の桜が、年々に繁り行くように、又よく知れ工合が大きくなって来たからである。我々は最初に桜ヶ丘という簡便な名を言い出した人に対して、大に感謝せねばならぬと思う。
いわゆる桜ヶ丘の区域は、保土ヶ谷区の中で、神戸上町の字西富士見坂、月見台、富士見台、谷原、市ヶ原、及雲雀ヶ岡の六字と、神戸下町の字東富士見坂、星川町の旭ヶ岡、加賀山、桜道、花溝の四字とより成る高標五十八米突の高台で(中には多少谷間の低地もあれど)戸数約五百を有してなお続々木の香かんばしさ新宅の日々に建て増し行く有望な地で、丘の桜と共にそ名の益々拡がつて行く所である。
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古代~中世の桜ヶ丘
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されど此の桜ヶ丘の漸く発展し始めたのは、わずかに大正十三-四年頃、即ち大震災後からのことで、それ以前は一面茫々たる畑地の連らなりと山林とであって勿論一つの棲家(すみか)だになかったのであった。そして遺蹟や伝説や記録などによって古に溯って(さかのぼって)調べて見ると、往古幾千年前かに先住民族がこの丘陵一帯に居を構えていたということは、この丘の所々より出土する土器又は石器等によりてその形跡をうかがうことが出来るが、どの位の時代までここに住んでいたかは史藉の徴(ちょう)するものがないからわからない。向側(中区久保町(現在の保土ヶ谷区区西久保町))圓福寺附近の山腹からは、古墳時代の遺蹟の発掘されたものがあるが、こちらの側にはまだその発見がないから、確かなことはいわれない。鎌倉時代の古戦場は、この隣村にもあるからその当時にはこの辺もまた多少兵馬の往来したことがあったろうとは想像出来なくはないだろう。降って小田原北條時代には、この丘の一部である星川町字加賀山に北條氏の家臣六郷加賀守が居城を構えていたということは今なお僅かにその遺蹟を存するガンガン井戸の口碑と共に人のよく知る所である。(ガンガン井戸の遺蹟は加賀山より星川町下ノ谷へ下る坂の中途にある。)
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江戸時代の桜ヶ丘
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徳川幕府の宿制度(いわゆる東海道五十三次)が今より凡そ三百三十余年前 (現在からは400年余り)即ち慶長年間 (1596~1615)に制定された以前は、この丘の地はその或都合が、当時の街道筋であって、行旅 (こうりょ)の人は皆それを往来したのだそうであったが、その路線は今のどの辺りであったか確かでない、ただ芝生村(今の神奈川区浅間町 (現在の西区浅間町))より保土ヶ谷の山下 (宮田町)に入り、今の曹達工場前 (現在の天王町団地)通りより古町橋を渡りて古町(神戸下町)に出でてこの丘に上り元町(保土ヶ谷町の一部)の神奈川坂 (花見台交番から元町ガードにいたる坂)より下りたのであるという伝説だけで、他は余り判然としていない。その後この丘にあった交通路が、今の下町の方へ移されてから大正の末期までは、神戸坂より都筑郡の二俣川村市野澤 (現在の旭区市沢町)へ通ずる里道 (さとみち)を稀に往来するものがあった位で、ただ菽麦 (しゅくばく:豆と麦のこと)栽培の耕作地で、それを耕作する農夫の外には余り人影を見ぬ所であった。
なお今日より考えて、余程奇異に感ぜられることは、徳川時代には、猪や鹿などの野獣がこの辺りにまで出没して、しばしば農作地を荒らして多大な損害を与えたということであった。この丘の地続きなる仏向町の北村氏方には、当時野猪 (のじし)の捕獲に使用した猪網 (ししあみ)が今なお保存されており、又時には幕府より鉄砲を借用し、それを用いてその跋扈 (ばっこ)を防いだということや、なおこれら猪鹿によりて荒らされた荒地起返 (おきかえし)に付き嘆願書をその筋に呈して年貢の減免を請うたことなどの記録もまた現に存している。これらは今より百六-七十年前の昔に属するが、明治十四五年頃迄もこの丘の所々に狐の巣穴 (そうけつ)があって、昼間でもしばしば山林をうろつく狐を見たことがあった。
--- 中略 保土ヶ谷宿名主軽部本陣所蔵の古文書 ---
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明治時代から大正時代の桜ヶ丘
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桜ヶ丘の昔は、徳川時代の末から、追々夜の明け行くと共に猪鹿等の野獣も、遠く深山へ跡を潜めてその被害も全くなくなった。明治を過ぎて大正の十二年頃迄は、この丘は、長閑 (のどか)な農作地であって、ただ広々と続いた畑地と、それをとりまいた山林とのみで一軒の人家もなかった。勿論今日の様に夜間などここに来るものもなければ又来る用事もなかったのであった。当時誰か街灯煌 (こう)として夜を照し、深夜なおかつ自動車の往来する今日の桜ヶ丘を夢見たであろうか。
そもそも桜ヶ丘を開拓して、今日の発展に導いたのは、けだし故岡野欣之助氏の遺された偉業の一つである。氏は夙 (つと)にこの高地が閑静な場所で、四囲の風光にも富みかつ空気の極めて清澄な健康地であり殊 (こと)に都会に通ずる交通の機関もすぐそばにあるから、ここを拓いて田園住宅地とし、多数の住民を招致して、町の発展に計画された。そして、その第一着手として、保土ヶ谷、神戸、下星川の三字に跨る (またがる)この高台一帯の耕地約二百町歩 (2k㎡)の整理を提唱された、各所有地主もまた大いにこれを賛して、保土ヶ谷第二耕地整理組合が組織された。同氏はその組合長となり、大正八年八月よりその整理事業は開始されたのであった。この工事は無慮 (むりょ:おおよそ)三十万円の費用を投じ、五ヶ年の歳月を閲して (えっして:経過して)ようやく竣工されたのであった。
これによりて、先づ恩恵に浴したのは道路である。先には手車の互に途をさけるのにさえ困難を感じたほどの狭き耕作路が、今は四間 (約7.2m)幅の立派な道路となって、自動車の行き交いにも悠々たるものがあるようになった。幹線の道路は、下の旧東海道より岐 (わか)れて、この丘に上り、以て都筑郡二俣川村方面へと延び、別に藤ヶ谷線、鬼ヶ谷線、下ノ谷線等皆同じ幅員を以て幹線に連絡し、なお他に神戸上町、神戸下町、帷子町、星川町、及び保土ヶ谷町よりの諸路線も皆この幹線に集注 (しゅうちゅう)して、いわゆる四通八達の道路は完成されて、交通上の利便は到底従前とは比較すべくもあらぬ様になった。もしこの耕地整理がなかったならば、いずれの日にか是等の道路が此の丘上に通ずるであろうか、またこの道路がなかったならば、いつこの五百の戸数を扼 (やく)する市街がこの丘山に建設し得られたであろうか。
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桜の植え付け
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大正十年四月耕地整理の工事将に竣成に近からんとした頃、又岡野氏によりて、桜の会組織が発案され、多数有志の賛助を得て直ちに実行に移された。此の会の事業はこの丘の各路線の両側に五間 (約9m)を隔てて桜樹を植付け、一つにはこの丘に美観を添え、又一つには横浜市近郊の名勝地となさんとする計画であった。そして程なく予定の事業も完成を告げた。爾来 (じらい)十五年幹は太り枝は繁りて陽春の花時桜ヶ丘の到る所は恰も (あたかも)花のトンネル、数万の観客ここに集い来る様になった。桜ヶ丘の名もこれから出たのだろう。
当時植付けられた桜樹の現存せるものは
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一、幹線
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394本
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一、藤ヶ谷線
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144本
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一、寺坂線
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62本
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一、鬼ヶ谷線
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86本
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一、月見台その他
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90本
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合計
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776本
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外に各戸に数本づつ配布して庭内に植付けてもらったものもあるが今その数を詳 (つまびらか)にすることが出来ない。
そしてこれに要せし経費は約三千五百円に達したということである。
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宅地開発の草分
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さて何れの新開地でも、最初そこに住居を構えられたいわゆる草分(くさわけ)という家があるのである。この家があるがために漸く(ようやく)世人の注意を惹き、これに倣うて(なろうて:ならって)漸次(ぜんじ)家屋が殖えて行くのである。我々は初めこの地に、未だ水道や、電灯や、瓦斯(ガス)などの文化施設のない時に方って、その日常の不便を忍んで居を構えられて、我々の注意を喚起してくれられたこの草分の家に対して、大いに敬意を払うものである。桜ヶ丘に於けるこの草分の家は、神戸上町富士見台の中田光之助氏、星川旭ヶ岡の安藤新蔵氏、兵隊山の佐々木熊吉氏、神戸上町月見台の森下大助氏等のそれらであった。殊に中田氏は実に大正十一年に建てられたこの丘最初の家であって、当時の不便と淋しさとは、今日の我々が到底想像も及ばぬことであったろうと思う。
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程谷小学校第二分校
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次いで大正十二年の夏、今の高等女子学校(現在の桜台小学校)の地に、程谷小学校の第二校舎が新築に着手された。此の丘第一の建物としてその広壮な二階建ての校舎が姿を現わしたのは、七月の末であった。暑中休暇に入る前僅かに二三日だけ、この校舎から伊吾の声(いごのこえ:書を読む声)が聞こえた。第二学期の九月一日始業の式が終わって、児童が各家庭へと散じてから約一時間ばかりで今から思ってもぞっとするあの大地震で、この建物は震撼(しんかん)されて、殆ど完膚なき迄に破壊されてしまった。その後ここに町立の女子補修学校が新築されて、やがて町立実科高等女学校が出来、同時に補修学校が家政女学校となった。それが今日の立派な横浜市唯一の市立高等女学校のもととなったのである。
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関東大震災と兵隊山
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震災の当時流言飛語に動かされて、人心極度に恟々 (きょうきょう)たりし時、横浜地方にもまた戒厳令が布かれ、歩兵第四十九聯隊 (れんたい)の一部が、遠く甲府より来て、この地方警備の任に当たられた。その際の駐屯地は、この桜ヶ丘の一角であった。即ち今の星川町旭ヶ岡と神戸下町の東富士見坂とに跨ってその兵舎が新設され、神戸下町の月見台がその練兵場に充てられたのであった。朝に夕に勇壮な喇叭 (ラッパ)の音が、松林の間をもれて響いた時、我々の意気も頓 (とみ)に昴り (たかまり)、皆枕を高くして寝ることが出来たのであった。兵隊山の名の今に残っているのはこれに由来する所である。
大震災の後、神戸下町に、星川町に草分の家が出来てから、この高台は漸く世人の耳目に触れて来て、点々と住宅が建てられ始まった。しかし浴風会横浜分園 (旧県立栄養短大があったところ)が星川町に建設され時分は、町営住宅の一郭があった外には、一般の住宅はまだ僅少 (きんしょう:わずか)の数であって、同分園も遠く人家を離れて極めて閑寂 (かんじゃく)なそして出入なども不便な場所であったのである。
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市営住宅と横浜市立高等女学校の建設
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昭和四-五年からこの丘は、急転直下の勢でその発展の輪廓(りんかく)を拡大して、あちらの畑も、こちらの丘もだんだん人家を以て占められるようになってしまった。市営住宅も又神戸上町の月見台と、星川町の加賀山とに建設され、幹線道の両側は、浴風会分園前に至るまで既に家屋が建てつらなってしまって、まだその先の方へも新しき住宅が増えて行くようになった。最近市立高等女学校は、その新築の校舎も完成して、浴風会一郭の建物と共に、堂々その偉観をこの丘上に飾っている。
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理想的田園住宅地
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桜ヶ丘は上述の径路を踏んで今日の発展に至ったのである。かつて故岡野欣之助氏が心血を傾けた計画は着々その効を収めて来たのである。氏逝いてすでに九年、この丘が戸数五百に垂んとする理想的田園住宅地となり、氏の主唱によって植付けられた桜樹が横浜の一名勝区となりて花時数万の観客を迎えるに至った今日の盛況を見ていただく事の出来ないのはまことに遺憾ではあるが、泉下(せんか)静に眠らるる氏の霊も必ずや悦んでおらるることと思う。
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以上「保土ヶ谷区郷土史」より
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「横浜市保土ヶ谷区鳥瞰図」より・S6 (保土ヶ谷区史掲載)
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以上の通り、桜ヶ丘の桜が植えられたのは大正10年4月ですから、今年令和 5年は102年目になります。当時、桜の植え付けには、大人に混じって小学校の児童達も手伝ったと言われています。 その時小学生だった方の話しによりますと、苗木の太さは「子供の手首くらい」だったそうですから、植え付け前の年数を加えますと、現在、桜ヶ丘の桜は樹齢105年程と考えられます。一般にソメイヨシノの寿命は50-60年と言われていますので相当な長寿です。当時植えられた桜は残り少なくなりましたが・・・
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