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たちばなじんじゃ
橘樹神社
江戸時代は牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)といい天王町の由来である。明治初年に橘樹社、大正10年(1921)に現在の橘樹神社となった。本殿の裏手には横浜市内最古といわれる寛文9年(1669)の銘が刻まれた青面金剛庚申塔(しょうめんこんごうこうしんとう)がある。
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かたびらばしあと
帷子橋跡モニュメント
昭和39年(1964)の帷子川の河川改修以前は、今の天王町駅前公園に旧帷子橋が架かっていた。(広重の浮世絵には「新甼橋(しんまちばし)」とある)
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しんめいしゃ
神明社
平安時代末、当地は伊勢神宮の御領地として寄進され「榛谷御厨(はんがやのみくりや)」と呼ばれ、その鎮守として神明社が建立された。現在の神殿は平成10年に竣工。ご祭神は天照大御神
(あまてらすおおみかみ)。
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こうぞういん
香象院
開山の年代は不詳。保土ヶ谷宿で最大の寺子屋があり、明治6年(1873)に保土ヶ谷小学校の分校となった。保土ヶ谷郷土史家・磯貝正(いそがいただし)氏の功績を称えた碑がある。
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けんこうじ
見光寺
開山は江戸時代初期。保土ヶ谷の住人で熱心な浄土宗の信者、茂平夫妻が建てた。保土ヶ谷出身のコラムニスト・青木雨彦(あおきあめひこ)氏の句碑がある。
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てんとくいん
天徳院
開山は安土桃山時代。本尊は運慶作といわれる地蔵菩薩坐像(じぞうぼさつざぞう)。土地の豪族、小野筑後守(おのちくごのかみ)が帰依して建立した。
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だいれんじ
大蓮寺
開山は江戸時代初期。日蓮上人が泊まった家を法華堂に改修したのが寺の始まりとのこと。家康の側室おまんの方お手植えのざくろの木がある。
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へんじょうじ
遍照寺
本尊の薬師如来像(やくしにょらいぞう)は横浜市指定文化財。念仏百万遍(ねんぶつひゃくまんべん)の供養塔や、岡野新田を開拓した岡野家の墓所がある。
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かなざわよこちょう
金沢横町の石碑(道標)
金沢や鎌倉への分岐点。角に道案内の石碑が4基並んでいる。その中に保土ヶ谷の俳人・其爪(きそう)の句で「程ヶ谷の枝道曲がれ梅の花」と杉田梅林への道を示す碑がある。
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ごしょだい
御所台(政子)の井戸
北条政子が鎌倉への途中ここで休んで井戸の水を使ったといわれる。明治天皇が本陣でご休憩された際にもこの井戸の水が使われたという。
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きたむきじぞう
北向地蔵
金沢道と弘明寺道(ぐみょうじどう:鎌倉下の道の名残か?)の分かれの辻に道標(みちしるべ)を兼ねてお地蔵様が北向きに建てられた。
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ほどがやほんじんあと
保土ヶ谷本陣跡
宿場の中でも立派な建物である本陣は、代々苅部家がつとめた。現在は当時を偲ばせる門や土蔵が残っている。明治3年(1870)に軽部(かるべ)に改姓し、現在も在住されている。
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はたご ほんかねこやあと
旅籠本金子屋跡
格子戸や通用門が当時の旅籠の雰囲気を伝えている。現在の建物は明治2年(1869)の建築。
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だいせんじ
大仙寺
開山は平安時代中期といわれ区内で最も古い寺の一つ。本陣をつとめた軽部家の菩提寺であり、旧東海道からは山門をくぐり参道が続いていた。
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とがわじんじゃ
外川神社
「お仙人様(おせにんさま)」の名で親しまれ子供の虫封じ(むしふうじ)に効き目があるといわれた。ご神木のケヤキが見事である。ご祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)。
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じゅげんじ
樹源寺
鎌倉時代に建てられた医王寺(いおうじ)が焼失した後、江戸時代初期に苅部家により身延山久遠寺(みのぶさんくおんじ)の末寺として開山した。
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たいしゃくてんともとまちばしあと
帝釈天と旧元町橋跡
昔、今井川は帝釈天の祠のある山裾に沿って流れ、祠の下あたりに旧元町橋があった。今の元町橋は川筋を変えた後のもの。
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ごんたざか
権太坂
昔は今より急坂で江戸からの旅人がはじめて出会う難所であった。一番坂と二番坂があり松並木が続き景色も良く富士が眺められた。
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なげこみづかのひ
投げ込み塚の碑
昔、街道の近くに旅の途中で行き倒れた人や牛馬を葬った場所があった。その後、平戸(ひらど)の東福寺(とうふくじ)に手厚く改葬され、供養のためにこの碑が建てられた。
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さかいぎたてばあと
境木立場跡
保土ヶ谷宿からも戸塚宿からも難所の坂を上り詰めたところに、旅人や馬が休息するための立場が設けられ、数件の茶屋があった。その内の1軒が現存し、明治天皇も休息された。
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さかいぎじぞうそん
境木地蔵尊
江戸からの講中や道中の安全を祈る旅人が多く参拝した。現在のお堂は関東大震災後、再建された。
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ぶそうくにざかい
武相国境モニュメント
この地が武蔵国(保土ヶ谷宿)と相模国(戸塚宿)の境であり、昔は木の杭が立てられていたので境木という。このモニュメントは平成17年に設置された。
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はぎわらだいかんやしきあと
萩原代官屋敷跡
萩原家は平戸の領主で代々旗本杉浦越前守の代官をつとめ、幕末の頃にはこの場所に道場を開いた。今は武家屋敷門と倉が残る。
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