■わが保土ヶ谷の郷土史については、既に先学諸兄により昭和初期から今日に至るまで多くの史書が発表されてきました。「横浜近郊文化史」「武相叢書」「横浜市史稿」「横浜郷土史」「保土ヶ谷めぐり」「榛谷御厨研究」「保土ヶ谷郷土史」「神奈川縣大観」「横浜市史」「神奈川県史」「かながわ風土記」「保土ヶ谷ものがたり」「保土ヶ谷区史」等々。そうした研究成果を読み合わせて見ますと、いずれも「新編武蔵風土記稿」(以下、風土記稿とします)の強い影響下にあることが判ります。勿論、風土記稿の記述に対する批判は決して少なくありません。新しく発見された文書の解読も進んでいます。それでも結局「保土ヶ谷郷土史研究の原点」は風土記稿であることに落ち着いています。
■そこで風土記稿をひもときますと、180年前の文章にしては一見平易に感じられます。抑も風土記稿の解説書など未だ聞いたことがないのですから。そうした軽い気持ちで読み進めて行きますと、すぐ壁にぶつかります。「闕・箆・纔・椽」とは何のことか、やはり常用漢字に慣れきった今日、旧漢字の文章は手強く、辞書無くして細部の理解は困難なことを思い知らされます。それでも辞書を調べれば判る場合は幸運です。例えば「陸田・水源・種る」をどう読むか、適当な読みが見あたりません。そうした時は江戸期のルビ付き本の読みが参考になります。即ち「はたけ・みなかみ・うえる」と。しかしまだ十分とは云えません。水源を「みなもと」と読む事例が混在しているからです。「~谷」は更に難解です。「~や、~がや、~たに、~やつ、~やと」等々、「~谷」がどう呼ばれたかは、その土地が開発された時代や人の移動にかかわる事柄とも云われ決して等閑にできないのですが、正しい読みの伝承が十分ではありません。その外、音読みするか訓読みするかを悩む事例は枚挙に暇がありません。江戸期文書の専門家からみれば一笑に付されるような些末なことに悪戦苦闘するばかりです。
■さて、風土記稿成立の経緯を「大日本地誌大系新編武蔵風土記稿第一期刊行例言」から引用いたしますと、「新編武蔵風土記稿は、大学頭林衡 (林述斎)の建議により、徳川幕府の編纂に係る、而して衡命を奉じてそれが総裁となり、局を昌平坂学問所に開き、間宮士信、松崎純庸、三島政行、神谷信順、井上常明等をして之を補佐せしめ、郡毎に分担を定めて其遍輯に従はしむ。従員前後を通じて凡四十余人、文化七年初めて久良岐郡に稿を起し、文政十一年新座郡の重修を以てこれを完成す。尋て浄写を終り天保元年之を幕府に上る、其間実に二十余年、洵に武蔵国に関する地誌の一大権威と云ふべし」
■また、「同第三期刊行序」には、その内容について、「本書は、江戸幕府が多年の日月を費して編纂した武蔵一国の地誌であって、その内容の正確詳密なことは群書を抜き、ことに寺社の宝物・古文書・遺物遺跡などを詳しく記した貴重な文献であることはすでに知られている」とあります。
■風土記稿の読まれ方として、巻頭から順次にではなく、まず必要な部分の抜き読みから始めるのが一般的ではないでしょうか。多くの郷土史研究家にとって、風土記稿の抜き読みなど甚も簡単なことでしょう。しかしながら全265巻を読破しようとすると、それは膨大な時間を要し、人によっては一大決心ものとなるかも知れません。ところが目指す地域以外の記述の中にも、求めるべき有用な情報が潜んでいる可能性が高いのです。風土記稿を誰でも気軽に読めるようにするためには、是非ともふりがなや註釈付の新訂版が待ち望まれます。
■そこでこの度、保土ヶ谷旭両区該当部分(帷子川流域地区)のふりがな付きPFD版を作りました。どなたか他の地区を分担していただければ幸いです。同好の志が現れますよう期待いたしております。