
2025年4月28日、NHK BSで「英雄たちの選択 紀伊國屋文左衛門~伝説の豪商と元禄バブル~」が放送されました。文左衛門に関する伝承は史実と創作が混在し、その識別が非常に難しいと言われています。番組では蜜柑伝説は後世の創作として否定され、木材の取引文書などを重視した見解によって文左衛門の生涯が語られました。一応の納得は得られるものの幾つか疑問が残りました。

保土ヶ谷の住人にとっての関心事は、文左衛門の次男が保土ヶ谷本陣苅部家の婿養子に入った件についてです。苅部家の先祖は、後北条氏の出城である鉢形城(埼玉県大里郡寄居町大字鉢形)の城代家老を務めた苅部豊前守康則の子孫で家柄に申し分はなく、一方文左衛門は豪商とはいえ一介の町人、少し不釣り合いな印象は否めません。

これまでに調べた、本陣文書と三種の伝記、そして幾つかのWeb情報から、婿入りが決まる経緯を抜き出してみました。
① ある伝記によりますと
宝永五年(1708)文左衛門の妻が亡くなり、次男の勝次(新二郎とも)は元気なく過ごす内に疱瘡に罹ってしまいました。やがて元気を取り戻した時、
文左衛門は鎌倉への吟行(俳句の題材を求めて名所旧跡などに出かけること)を計画しました。連れは俳諧師でもある居候の稲津甚次郎。社寺や由比ヶ浜を巡り帰途に着く頃、勝次は拙いながらも句を吟じるようになり、自らの号を千泉に定めたと言われます。
名月や 蒲鉾できて 檀葛 千泉
ところが、保土ヶ谷宿で一泊した翌朝、勝次は熱を出しました。このまま宿に留まっては他の客に迷惑がかかるので、甚次郎は「良いところがある」と本陣の門を潜りました。本陣の苅部清兵衛と甚次郎は以前からの俳句仲間なので、文左衛門と勝次は快く迎えられました。本陣の豪華な離れで六日ほど過ごすと勝次は見違えるように元気を取り戻しました。それだけではありません、勝次と清兵衛の娘多和とすっかり仲良しになり、「わたし大きくなったら勝ちゃんのお嫁さんになりたい」と言い出す始末。この時、勝次は十一歳、多和は一人娘で八歳。深窓のお姫様にとって勝次は白馬の騎士に思えたのでしょうか。これがやがて子供の戯れ言ではなく、実現する方向に展開したとすれば・・・

その頃、文左衛門は紀伊國屋の店を畳む算段をしていたとされます。元禄バブルが終わりを告げ、新井白石が登用され倹約政策となれば、材木商の旨味はなくなります。まだ余力ある内に奉公人たちに暇を出せば、再出発の資金を与えることができる。身体が弱い次男の勝次にとって、全国の山野を駆け巡る文左衛門流の材木商は無理。本陣の当主ならどうにか務まるかも知れない。そう考えたのでしょうか。

② 苅部家の菩提寺大仙寺
苅部家の菩提寺である保土ヶ谷霞台の大仙寺は寛文十年(1623)に火災で全焼し、元禄十四年(1701)に再建されました。当時、寺院建築の用材を扱える材木商が保土ヶ谷にあったとは考え難く、江戸の材木商に発注した可能性があります。元禄11年(1698)に上野寛永寺の根本中堂を建立する際、文左衛門はその入札の権利を得て莫大な利益を上げたとされます。柱や板材を個別に入手するのではなく、静岡の或る山林を山ごと買い求めて自ら製材し価格を抑えたばかりか、充分使える余材を大量に得て更なる利益を上げたと伝えられます。つまり、大仙寺の建築用材を江戸の材木商に入札をかけ、文左衛門が落札した可能性は極めて高いのです。この推理が正しければ、その時点で苅部家と文左衛門は繋がったことになります。
傍証があります。神明社本社拝殿の扁額は、表面は「天照太神宮」、裏面は「元禄十六年癸未年五月 別所助右衛門」とあります。別所助右衛門の名は、元禄十四年(1701)上州御巣鷹山御用林の樹木伐採願書に列記された名前の中に見えます。当時、別所姓を名乗る材木商と言えば文左衛門一族の外に候補はありません。別所は文左衛門の本姓です。(未確認ではありますが、本陣文書に文左衛門の長男が別所助右衛門を名乗ったとの記述があるそうです)元禄年間は保土ヶ谷でも地震や風水害が続き、神明社で修築や改築が行われた可能性は充分あり得ることです。苅部本陣は神明社の筆頭総代です。苅部家と文左衛門との信頼関係が深まれば、養子縁組の話もあり得ましょう。

③ 想像を逞しくすれば
文左衛門の妻は紀州有田郡湯浅に鎮座する藤並神社神主の娘と言われます。この件に関しては、手元にある伝記本三冊とも一致しています。Web情報には別の神社名を上げている例もありますが、神主の娘であることに変わりはありません。
伊勢出身の神明社神主岡田刑部は、後に本居宣長と姻戚関係を結び、また白川家から従五位下の官位を授かる程に有力な神主でした。昔から神職は婿や嫁を同業者から選ぶ例が多く、岡田刑部と藤並神社の神主が旧知の仲、或いは姻戚関係にあったとしても不思議ではありません。更に妄想すれば、苅部本陣の奥方は岡田家から迎えた可能性が微かに浮かび上がってきます。となりますと、文左衛門の妻と苅部本陣の奥方は遠縁に当たるのかも・・・

尚、江戸時代の保土ヶ谷本陣は「苅部」姓でしたが、明治元年、明治天皇東幸の砌、本陣宅に逗留された際、お付きの者が「苅部」を「軽部」と誤記したことから、以後「軽部」姓を名乗るようになったと伝えられます。

話はまだ終わりません。本居宣長の出身は松坂の小津家だそうです。その一族の子孫に映画監督の小津安二郎氏がいます。同監督の常連女優は原節子さん、原さんは保土ヶ谷月見台の出身です。原さんに刺激を受けた私の姉は、擦った揉んだの揚句に某映画監督と結婚しました。その子(私の甥)は現役の映画監督です。何だか物事がグルグル回りしています。
-------------------------------------------------
本節は2025年5月29日に神明社社務所で行いました講話会原稿の一部です。
神明社 宮司 飯塚 充