はじめに
はじめて保土ヶ谷駅に降り、バス乗場にある路線図や時刻表を見た時、歴史や地理に詳しい人ならば、保土ヶ谷が古い地名の宝庫であることに気づくそうです。けれども保土ヶ谷に生まれ育った人はそうしたことに余り関心を持たず、訪問者の指摘によって知らされます。私もその一人です。

保土ヶ谷・神戸・帷子・天王・星川・仏向・釜台・権太坂・狩場・法泉・藤塚等々。確かに曰くがありそうな地名ですね。

一般に、地名はその土地の地形・気候風土・歴史・大事件や大災害の有無、そしてそこに住む人たちの営みなどを知る上で貴重な情報源とされています。

地名学者の山口恵一郎氏は、「地名は土地のイメージを表現し、地域の歴史を物語る貴重な文化遺産である」と位置づけています。

ところが、近年 市町村合併や町名変更の際 「時代に合った分かり易い地名が好ましい」との理由で、地域の歴史を顧みず、耳当たりの良い洒落た地名が付けられる傾向にあります。そうした例は、横浜市内では青葉区が最も著しく、古くからの地名がないがしろにされています。
町名の種別
グラフの色
青葉区
保土ヶ谷区
江戸時代の地名に基づく町名
18町
30町
歴史に配慮した新しい町名
4町
5町
古い地名とは無関係な町名
23町
6町
町名数合計 (H18.1.1現在)
45町
41町


  青葉区保土ヶ谷区

保土ヶ谷は新しい地名も少なくありませんが、それでも古い地名が良く残されている方ではないでしょうか。また最近、公園・バス停・トンネル等の名称に、古い字名や小名を元に命名される例が数多く見られます。古い地名を尊重する考えが市当局内にあるようで郷土史愛好家の一人として心強く思っています。
仏向町
 やしづか
矢し塚公園
仏向町
 ぎょうざや
行坐谷公園
仏向町
むかいはら
向原バス停
仏向町
 いのくぼ
猪久保トンネル(JR貨物線)
新井町
かなくさざわ
金草沢バス停
法 泉
うぐいす橋バス停
さて、現在保土ヶ谷区役所は「神奈川県横浜市保土ヶ谷区川辺町」にあります。江戸時代の地名で表せば「武蔵国橘樹郡帷子町字川辺」となります。

この中で「神奈川・横浜・保土ヶ谷・武蔵・橘樹・帷子」はその由来が定かではありません。由来が明らかな地名は「川辺」のみです。「川辺」とは「帷子川の川辺に広がる地区」でだれも異存ありません。

そこで、保土ヶ谷区内の地名について、私の調べた結果を順次述べてみたいと思います。まず始めに「保土ヶ谷」の地名の由来について考えてみましょう。
「ほと」や「ほど」のつく地名の分布
Web上では「保土 → ほど → ホト」説がまことしやかに語られています。
本当にそうなのでしょうか。子供たちに説明しにくいですね。

地名辞典や日本地図を開きますと、「ほと」や「ほど」の付く地名は全国各地に分布しています。その一部を下の表にまとめました。
青森県
保戸沢
ほどさわ
埼玉県
宝登山
ほどさん
青森県
程 森
ほどもり
群馬県
保渡田
ほどた
秋田県
保戸野
ほどの
東京都
程久保
ほどくぼ
秋田県
保戸野
金砂町
ほどの
かなさまち
長野県
程 野
ほどの
秋田県
保戸野
鉄砲町
ほどの
てっぽうまち
静岡県
保土沢
ほとざわ
宮城県
保土塚
ほどづか
岐阜県
保戸島
ほどじま
福島県
保土原
ほどわら
島根県
程 原
ほどわら
福島県
程 田
ほどた
島根県
程彼村
ほどがんむら
福島県
程窪村
ほどくぼむら
高知県
程野村
ほどのむら
新潟県
程 川
ほどがわ
大分県
保戸島
ほとじま
新潟県
程 島
ほどじま
大分県
穂門郷
ほとのごう
栃木県
程 島
ほどしま
その他青森県岩手県に多数分布
本表中、○及び△の意味については後述します

史料と諸説
次に保土ヶ谷の地名の由来に関する史料を確認しましょう。
900年代の始めに成立した【和名抄】に「幡屋」の名が見える。
「幡屋」は「はたのや」と読む。
東鏡や伊勢神宮の文書に「榛谷御厨」の名が見える。
「榛谷」は「はんがや」と読む。
明応3年(1494)の文書に、かな文字で「ホトカエ・ホトカヘ」が見える。
これが歴史上最初に現れる「ホトカエ」とされている。
「・・カエ」「・・カヘ」は「・・カヤ」の古語と考えられる。
天文24年(1555)に書かれた【神明社御由緒】の中に「下保土ヶ谷」が
見える。これが歴史上最初に現れる「保土ヶ谷」とされている。
後北条氏の【小田原衆所領役帳】(1593)に「保土ヶ谷」が見える。
江戸時代の始めから、種々の文書に「保土ヶ谷」が現れる。
以上が、保土ヶ谷の地名の由来を探る手掛りです。
それでは、保土ヶ谷郷土史の先学たちはどのように考えたのでしょうか。

以下、保土ヶ谷区郷土史(昭和13年)に掲載されている七つの説を上げます。
幡屋〜榛谷〜保土ヶ谷説 郷土史家:磯貝正氏の説
現在、保土ヶ谷区役所では、この説を第一に上げている。
「ホト」ヶ谷説=地形に寄る説 民俗学者:柳田国男氏の説
古事記(712年)から「ホト=女陰」とされる。一番人気の説?
アイヌ語起源説 「ホト=谷」 
世戸井〜保土ヶ谷説 僧萬里の紀行文(1485)からの推論。
横浜市誌編纂室山田蔵太郎氏の説。
仏谷(ほとけがや)説  仏向の存在から。
語源学的解釈説 保=丘陵、土=土地。
与謝野寛氏の説「保土ヶ谷小学校の雑誌」に掲載。
土を常に保持しなければ耕地が保てない。漢字の意味から類推した説。
日野の郷土史家による「程久保の由来」から。
それから70年、保土ヶ谷の郷土史研究は、多くの人たちによって受け継がれてきましたが、保土ヶ谷の地名の由来については、あまり進展がありません。

近年の郷土史家は、1や2の説を取り上げつつ幾つかの説を併記し、断定を避けています。各種の辞書類も同様の扱いです。

一例として、角川日本地名大辞典から「保土ケ谷」の項の一部を転載します。

ほどがや 保土ヶ谷 〈横浜市〉 多摩丘陵東部に位置し,地内南部を帷子(かたびら)川支流の今井川が西流する。地名の由来については,地形・信仰上よりの低湿地を意味するという説,アイヌ語の転訛したとする説,僧万里の紀行文より文明17年万里が武蔵に泊った世戸井が転訛したとする説,奈良・平安期の幡屋(はたのや)の郷名が平安末期から鎌倉・室町期にかけて榛谷(はんがや)となり,戦国期に保土ケ谷という順序に転訛したとする説など諸説があるが詳細は不明。

〔中世〕保土ケ谷 戦国期に見える地名。武蔵国橘樹(たちばな)郡のうち。程ケ谷とも書く。明応3年4月19日の玉井院檀那本銭返売券に「ホトカエ太輔 ホトカヘ満蔵坊」とあり,当地の檀那が月光房から熊野那智山実報院に売却されている(米良文書/県史資3下-6401)。「役帳」には小田原北条氏の小机衆三郎殿(小机城主北条氏秀)の知行役高として「九十一貫卅八文 同(小机)保土ケ谷」とある。氏秀は元亀元年,越後の上杉謙信の養子となり,景虎と名乗ったが,天正7年上杉景勝と争って自害した。また「三郎殿」は北条幻庵の子綱重であるとする説もある。天正13年12月15日の北条氏勝判物写には「先知行高千五百貫,本目領……程ケ谷村」と見え,この頃当地に堀内日向守の知行地があったことが知られる(堀内文書/同前9147)。

幡屋〜榛谷〜保土ヶ谷説について
それでは(1)の幡屋〜榛谷〜保土ヶ谷説について考えてみましょう。
この説は、保土ヶ谷区役所ばかりではなく、当神明社のチラシにも取り上げています。しかしながら、どうしたら「はたのや」〜「はんがや」〜「ほどがや」へと訛ることができるのでしょうか。「はた」から「はん」へは理解できても、「はん」から「ほど」への変化には少し無理があるように思えます。

1800年代の始めに書かれた「新編武蔵風土記稿」によれば、「都筑郡二俣川村大字・榛谷」と「橘樹郡保土ヶ谷町」が、共に存在していたことが判ります。榛谷と保土ヶ谷は元々別の地名と考える方が素直ではないでしょうか。

他に適当な説が見あたらないものですから、神明社では、やむなく「一説によりますと・・」と断り書きを付けて紹介している次第です。
柳田国男説について
(2)のホト説は現在最も人気のある説です。柳田国男氏が主張したことから、Web上では専らこの説が取り上げられます。

柳田氏の説によれば、古代人はたいへんおおらかで、現在ならば放送禁止用語になるような言葉を当たり前に発していたそうですが、本当にそうだったのでしょうか。

 古事記上巻の一節に、

次生火之夜藝速男神(夜藝二字以音)亦名謂火之炫毘古神。
亦名謂火之迦具土神(加具二字以音)因生此子。
美蕃登(此三字以音)見炙而病臥在.。

 読み下しますと、

次に火之夜藝速男神(ひのやぎはやをのかみ)を生みました。
(また)の名は火之炫毘古神(ひのかがびひこのかみ)と謂(もう)し、
(また)の名は火之迦具土神(かぐつちのかみ)と謂(もう)す。
此の子を生みますに因(よ)りて、美蕃登(みほと)(や)かえて
(や)み臥(こや)せり。


となり、この場合「美蕃登(みほと)」は確かに女陰を意味します。
では、古事記上巻の一節を現代語訳で読んでみましょう。

古典に現れる最初の 「ほと」  古事記上巻冒頭部分  (訳:飯塚 充)

天と地が始まった時に、高天原(たかまのはら)にお出来になった神様の名は、
天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)
高御産巣日神(たかみむすひのかみ)
神産巣日神(かみむすひのかみ)
宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこじのかみ)
天之常立神(あめのとこたちのかみ)
中略

以上の五柱(いつはしら)の神様を別天津神(ことあまつかみ)といいます。
中略

次にお出来になった神様は、
伊耶那岐神(いざなぎのかみ)
伊耶那美神(いざなみのかみ)
中略

ここに別天津神すべての神々は、伊耶那岐・伊耶那美二柱の神様に 「この漂っている土地を整え固めて完成せよ」 と仰せになり、天の沼矛(あめのぬぼこ)を授けられました。

そこで二柱の神様は、天界と下界とを繋(つな)ぐ天の浮橋(あめのうきはし)にお立ちになり、その沼矛(ぬぼこ)を指し下して掻き回され、海水をころころと掻(か)き鳴らして、矛(ほこ)をお上げになりますと、その矛の先より滴(ひたた)り落ちる海水の積ったのが、おのごろ島となりました。二柱の神様はその島に降りられ、先ず天の御柱を見立て、次に御新居となるべき八尋殿(やひろどの)を見立てられました。

伊耶那岐の命は伊耶那美の命に 「お前の体はどの様に出来ているか」 と訊(たず)ねられたので、伊耶那美の命は 「私の体は出来上がっていて出来きらない処が一処(ひとところ)あります」 と答えられ、そこで伊耶那岐の命の仰せられたのには 「私の体は出来上がっていて出来すぎた処が一処ある。だからこの私の出来すぎた処をもって、お前の出来きらない処に合わせ塞(ふさ)いで、国を生みだそうと思う。どうだろうか?」 伊耶那美の命は 「それがよいでしょう」 と答えられました。

そこで伊耶那岐の命は 「それならば、私とお前と天の御柱(あめのみはしら)を行き巡り合ってみとのまぐはひ(=H)をしよう」と約束をして、早速「お前は右より回り、私は左より回りお前に逢おう」 と仰せになり、御柱を廻る時に、伊耶那美の命先ず 「ほんとにまあ、いとしいおかたですこと」 と言われ、後に伊耶那岐の命「なんとまあ、かわいい娘だろう」と言われました。その時、伊耶那岐の命は妻に 「女が先に声をかけたのはよくないのでは」 と仰せになりましたが、余り気にもとめずHをされ、やがて伊耶那美の命は、骨のない水蛭子(ひるこ)をお生みになりました。二柱の神様は嘆き悲しみながらこの子を芦船(あしぶね)に乗せて流し去りました。次に淡島(あわしま)をお生みになりましたが、この子も出来がよくありませんでした。

伊耶那岐の命は 「今、私たちが生んだ子は良くない、やはり別天津神(ことあまつかみ)に相談しよう」 と言われ、別天津神の指示を仰がれました。そこで別天津神等は占いをされ、二柱の神様に 「女が先に声をかけたのがよくない、再びかえってやり直せ」 と仰せになりました。今度は 「なんとまあ、かわいい娘だろう」 「ほんとにまあ、いとしいおかたですこと」 と言い終えて、結婚されてお生みになった子は、淡路嶋・四国・隠岐嶋・九州・壱岐嶋・津嶋(対馬)・佐渡嶋、そして大倭豊秋津嶋(おおやまととよあきつしま)。これら八つの嶋をまずお生みになられたので日本のことを大八嶋国(おおやしまぐに)とも言います。その後小さな島々を生み国を造り終えて後、今度は沢山の神様をお生みになりました。
中略

次に火之迦具土の神をお生みなりましたが、この火の神をお生みなったことによって、伊耶那美の命のみほとが焼かれ病気になって伏せられてしまいました。
以下略


この文章の縦書きPDF版を用意しました → 古事記上巻冒頭部分PDF版

古事記の中にはこうした用例が随所に見られますが、すべてがそうとは限りません。他の意味に使われることもあります。

 古事記中巻・安寧天皇の条に、

御陵在畝火山之美富登也。

 読み下しますと、

御陵(みはか)は畝火山(うねびやま)の美富登(みほと)に在り


 日本書紀・安寧天皇の条に、

葬磯城津彦玉手看天皇畝傍山南御陰井上陵。

 読み下しますと、

磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまでみのすめらみこと=安寧天皇)
畝傍山南御陰井上陵(うねびやまのみなみみほとゐのうえのみささぎ)
(かく)しまつる。


となります。それでは、畝火山(うねびやま)の美富登(或いは御陰:みほと)はどこか。
安寧天皇の実在性や御陵に比定されている場所には疑念があるといわれていますが、現在、宮内庁が安寧天皇陵とする「畝傍山西南御陰井上陵 (うねびやまのひつじさるみほとのいのえのみささぎ)」を地図で確認しますと、

下の図の通り、大和三山(天香久山・畝傍山・耳成山)に囲まれた「藤原京」から見て、畝傍山の南西の山裾に位置します。

大和三山の図
つまり「畝傍山の美富登(御陰)」とは、藤原京から見て畝傍山の向こう側=山陰(やまかげ)と考えられます。

 多くの辞典類では「ほと」の意味を

(1) 女陰。ほとどころ。 (2) 山間のくぼんだ所。


としていますが、畝傍山付近の地形図を見る限り、「山間のくぼんだ所」は見あたりません。この場合「富登・陰(ほと)」とは単に「陰(かげ)」の意味、或いは「陽」対する「陰」と考えられます。

以上の考察から、「柳田氏のホト説」は決して十全ではないことが判ります。また「ほと」や「ほど」の付く各地の地名を調べると、別の理由が浮かび上がってきます。 そこで8番目の説を立てることにしました。   ・・・・・つづく。
この続きは、今しばらくお待ち下さい。