■ 神明社内に祀られた境内社の中に「切部之王子社
(きりべのおうじしゃ)」があります。このお社の大本は、和歌山県日高郡印南町
(いなみちょう)に鎮座する切目神社
(きりめじんじゃ)とされます。切部之王子社は西暦1555年に書かれた当社の縁起書に見えることから、室町時代以前の鎮座と考えられますが、それ以上の記録はなく正確な年代は不明です。
■ さて、平安時代の末期から鎌倉時代にかけて、熊野本宮大社
(くまのほんぐうたいしゃ)・熊野那智大社
(くまのなちたいしゃ)・熊野速玉大社
(くまのはやたまたいしゃ)の三社に詣でる「熊野詣」が盛んになった時代があります。延喜七年(907)の宇多法皇以来、法皇上皇の熊野御幸
(くまのぎょこう)が始り、白河上皇は九度、鳥羽上皇は二十一度、後白河上皇は三十四度、後鳥羽上皇は二十八度と多くを数え、弘安四年(1281)亀山上皇の御幸
(ぎょこう)をもって終結を告げたとされます。そうした熊野詣のために京都から熊野那智に至る間に九十九個所の王子社
(御旅所)が設けられました。切部之王子社=切目神社はそうした王子社の中でも特に規模の大きい社
(やしろ)として隆盛を極めたとされます。同じころ熊野御師
(くまのおし)達の活躍により、「熊野三社」の分社が全国各地に勧請
(かんじょう)され、熊野信仰が大きく拡がりました。ではなぜ、保土ヶ谷の地に「切部之王子社」が祀られたのでしょうか。順当なら熊野三社のいずれかが祀られたことでしょう。その経緯について想像を巡らしてみましょう。
当時紀州は、紀伊水軍が活躍する海の民の根拠地でもありました。当然、船を漕ぎだし各地との交易に勤しんだ者もいた筈です。或いは外洋で遭難し、どこか太平洋岸に辿りついた者も少なくなかったものと考えられます。そうした紀州出身の者が何時の頃か保土ヶ谷の地に辿り着き、やがて定住するようになり、故郷の神社を祀るようになった、と考えられます。
平安時代の末期、西日本では干ばつによる凶作が続き、人口が大きく減った時代とも言われます。その頃東日本では、干ばつによる被害は比較的軽く、伊勢神宮の御厨
(みくりや)が東国に多く開かれた理由の一つともされます。鎌倉時代、紀州雑賀
(さいが)の庄に起こった雑賀党
(さいがとう)の一族が三浦半島に落着き、後の「サイカヤ」に発展したことから、紀伊水軍が全国に展開した可能性は充分に考えられます。因みに、切部之王子社の分社は、保土ヶ谷の他、福島県南相馬市・高知県大豊町・鹿児島県大崎町・鹿児島県垂水市にあります。つまり、切部之王子社が保土ヶ谷の地に勧請されたのは、平安時代の末期から室町時代にかけてのうち、鎌倉時代と考えるのが最も順当に思われます。但し残念ながら、いまだ確たる証拠は見付かっていません。
(神明社 宮司 飯塚 充)