保土ヶ谷には口碑や伝説がたくさん伝わっています。
その中に 「保土ヶ谷宿で牛車が動かなくなる」 話しがいくつかあります。
なぜでしょうか。
境木地蔵の
由来
昔々、相模国鎌倉腰越の海辺に漂着した地蔵が、土地の漁師の夢枕に立ち 「俺は江戸の方へ行きたい。運んでくれたらこの海を守ろう」 と告げたので、漁師達が江戸へ運ぶことになりました。ところが、途中この境木 (境木は武蔵国と相模国の国境に位置します) で、牛車が一歩も動かなくなってしまいました。そこで、村人達は地蔵を引き取りお堂を建てて安置しました。それから村はたいそう繁昌したそうです。【万治2年(1659)】


     境木の地蔵堂                       地蔵菩薩
神明社の
手水鉢
昔々、江戸のある寺へ納める手水鉢を牛車に積んで東海道を上ってきました。(手水鉢は小松石で出来ています、おそらく真鶴産と思われます) 平塚・藤沢・戸塚、そして権太坂を過ぎ、保土ヶ谷の宿に入ったところで、牛車が一歩も動かなくなってしまいました。車夫は困り果て、助けを呼んだり別の牛に替えたりしてみましたが、それでも動かず、結局宿場預りとなりました。

今度は宿場役人が困りました。重くて大きな石の塊です。街道筋に置いたままでは往来の邪魔になります。そこで関係者一同相談の上、宿場の鎮守である神明社へ奉納することになりました。
神明社の
手水鉢
【後日譚】
その後、手水鉢を宿内から神明社の境内に運び込むとき一波乱がありました。参道の途中にある二カ所の老朽化した木製の太鼓橋を護るため、地元出身の相撲取りが肩で橋を支えたそうです。 【正徳4年(1714)】

もともと寺院用に造られた手水鉢だったため、正面に卍紋が彫られていました。 巴紋に彫り直したのは昭和50年です。


神明社の手水鉢              杉山神社の怪力石灯籠
西久保町
杉山神社の
怪力石灯籠
昔々、ある江戸の講中が、伊勢の大神宮へ石灯籠を献納しようと、牛車に積んで江戸を出発し、品川・川崎・神奈川と無事に東海道を下ってきました。 ところが、保土ヶ谷に着くなり牛車が一歩も動かなくなってしまいました。 別の牛に替えても全く進まず、結局その日は保土ヶ谷泊りとなりました。 翌日もまた牛車は動かず、挙句の果てに、牛は杉山神社の境内へ逃げ込んでしまいました。

そこで、「これは石灯籠が伊勢へ行くのを嫌がり、この宮に納まりたいという心に相違ない」 と一同相談の上、杉山神社へ奉納することになりました。灯籠に「伊勢大神宮」、台座に江戸講中の名が記されているのはそのためです。【嘉永5年(1852)】
さて、以上は伝承ですが、少し科学的に考えて見ましょう。物の本によりますと、江戸時代の牛車の標準積載量は「米俵9俵=約540Kg」程度だったそうです。上記の地蔵・手水鉢・石灯籠の重量を概算しますと、 
  境木地蔵:推定重量・約700Kg
  神明社の手水鉢:推定重量・約1,300Kg
  杉山社の石灯籠:推定重量・1基約2,500Kg 1対で約5,000Kg
いずれも牛一頭だてでは積載オーバーになります。

牛車の積載制限を守れば、境木地蔵は牛二頭・手水鉢は牛三頭・石灯籠一対は各部に分解して牛10頭必要になりますが、当時、牛二頭だてや三頭だての車が常時使われていたかどうか疑問です。

権太坂は東海道の難所として広く知られていますが、それだけではありません。保土ヶ谷宿は江戸時代の始めに今井川添いの低湿地を埋め立てて街道を整備したところです。地盤が弱く水はけもよくありません。雨上りでなくとも重量物を積んだ牛車の通行には難渋したはずです。無理をして牛を痛めたり車を損傷したりしたかもしれません。

つまり「牛車が動かなくなる理由」は、
過積載によるトラブルが原因ではなかったかと考えられます。 また、当時の保土ヶ谷宿は賭場が盛況だったそうです。車夫が博打で負けて、身ぐるみ剥がされて・・・ と言う可能性も否定出来ません。 いいえ、ほんとうに神仏の意志だったのかも・・・・・

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