現在、外川神社(とがわじんじゃ)の境内にある道祖神は、そのむかし樹源寺(じゅげんじ)寄りの街道筋にあったと言われています。旅人はもとより足を商売にした雲助(駕籠の担ぎ手)連中までが、この祠に祈ると足に災いから免れるといって、社前に御礼のしるしとして巨大な草鞋(わらじ)を奉納したり、祠の前を通る時は必ず駕籠(かご)をおろして一礼するのが常であったと伝えられます。

道祖神は路傍の小さな祠に祀られるのが一般的ですが、この道祖神は別格です。二間(3.6m)四方の総欅造りで、それは豪華で本格的な入母屋(いりもや)造りの社殿に祀られています。建築様式から江戸中期のものと推定されます。

明治時代になって、東海道線の線路敷設のために一時現在の岩崎ガード付近に場所を移し、その後、国道一号線の拡幅工事に伴って、外川神社の境内に移ったと伝えられます。



写真中央が道祖神                    明治時代の外川神社社頭
さてある時、近隣の子供等が大勢集まって、祠から道祖神の石像を引きずり出し、境内を我が物顔で遊び廻っていました。それを参詣にきたある老婆が「尊い道祖神様に対してなんとしたことか、悪戯にも程がある」と子供達を叱りとばしました。ところがその老婆は、参拝を終えて帰宅したとたん高熱を出して寝込んでしまいました。医師に見せても原因が判らず、薬を飲んでも効かず、どうしたものかと困り果て、ある人に頼んで占いをしたところ、
 道祖神の怒りに振れたことが明らかになりました。

     折角子供相手に楽しく遊んでいたのを
     仔細らしく止め立てしたのが気に入らぬ。
     これからも子供を叱るなら
     腹立ちの余り取り殺すからそう思え


 
というそれは恐ろしいお告げでした。
老婆とその家族は、早速、境内に子供等を呼び集めて菓子や飴などの施しをしました。すると、老婆の病は忽ち平癒したそうです。

それからと云うもの、道祖神が旅の安全や足の病はもちろん、子供の健康や成長に御利益があることが知られるようになりました。
平成17年9月14日、道祖神が「御開帳」され、その銘文を撮影することができました。以下はそのレポートです。

1810年代に書かれた新編武蔵風土記稿「保土ヶ谷町」の条に、「大仙寺」と「樹源寺」の記述にはさまれて、

 
道祖神社 同所にあり小祠  とあります。

「保土ヶ谷郷土史」(昭和13年刊)上巻134頁、寛政十一年(1799) 「宿方明細書上帳」(控)に、

 字下耕地御年貢地
 一、道祖神社 八尺九尺 壱ヶ所 別当 同寺(大仙寺のこと)
 是ハ前々より有之候得共年久敷儀ニ付年歴相知不申候

読み易くしますと、
 
一、道祖神社 240cm×270cm 1ヶ所 別当は大仙寺
 この神社は前々から有りましたが、ずいぶん昔のことですので由来については
 よく分かりません。
 となります。

銘文を読み易くするため、画像処理をしました。
実物はこんなにオドロオドロしくありません。
さて、今回撮影した道祖神の写真から、銘文は「(□) 未 正月十日」 と読めます。残念ながら(□)は半分しか判読できません。この位置には、多くの場合、十干「甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸」のいずれかの文字が配されますが、(□)の下半分は十干のどの字とも一致しません。十干が省略されることもありますので、元号の一部かもしれません。そうなりますと、過去の元号から類推して、(□)は「正」の字の下半分ではないかと考えられます。そこで、「?正」なる元号の中から未年にあたる年を探しますと、

 「寛四年(1463)癸」 「永八年(1511)辛
 「天十一年(1583)癸」 となります。

もう一つの見方があります。「(元号)・(年)・(十二支)・(月日) 」とする銘文の記載例もありますので、(□)の字を「五」の下半分と考えることもできます。では「(元号)五 未 正月 」に合致する年を探してみましょう。

 「元和年(1619)巳」 と 「正徳年(1715)乙」 があります。

元和五年は神明社の造営工事が大々的に行われた年にあたります。
正徳五年は神明社へ曰く付きの手水鉢が奉納された翌年にあたります。
奇遇ですね。

何れの時期も、有能な石工が保土ヶ谷宿に逗留していたはずです。特に1600年代の初頭は、関ケ原の合戦や大阪冬の陣・夏の陣の後、各地で社寺の復興が盛んに行われた時代です。そのために築城技術に優れた藤堂高虎配下の石工集団(志摩波切地区の石工)が全国に散って行ったと伝えられます。また、そうした石工たちが道祖神信仰や庚申信仰を広めたとの説もあります。

上記の通り、1799年の記録には「ずいぶん昔のことですので由来についてはよく分かりません」と記されています。正徳五年は1799年の84年前です。二世代前のことが分からなくなるほど、保土ヶ谷に大きな変化があったとは思われません。当時、本陣家・大仙寺の住職家・神明社の神主家とも安泰だった時期です。また、一見したところ石の風化もかなり進んでいます。
とするならば、元和五年説が・・・・・。

結論を急いではなりません。保土ヶ谷には元禄から正徳・享保にかけての石造物が各所に残されていますので。  謎解きにはもう少し時間がかかりそうです。

一般に、日本最古の道祖神は、「永正二年(1505)建立」の銘が入った長野県上伊那郡辰野町に祀られている双体道祖神とされています。(この説については検証が必要です。 また外川神社の道祖神の様式を「(単体)僧形道祖神」と呼ぶそうです)