歴史書を読んでも、一般の農民や町民がどのような生活を送っていたか、なかなか知ることができません。江戸幕府の命によって編纂された「新編武蔵風土記稿」の中に興味ある一説があります。おぼろげながら当時の農民の生活ぶりが伺えます。読み易くするため現代文に書き直しました。原文は別欄「新編武蔵風土記稿」の86ページにあります。  クリックすると原文がでます 【もん女】
もん女は上菅田村(保土ヶ谷宿の隣村)に生まれました。幼いときに父母に別れ、祖母に育てられました。祖母はもんがみなしごであることを哀れんで、困窮の中にも心を尽くして育てました。やが17歳になった頃、村内の百姓の子・七右衞門を婿に迎えましたが、苦難に耐えきれず、妻を棄てて家を出て行ってしまいました。

そこでもんは、自らひとり祖母を養うことになりました。祖母はひどく老い込んでしまいましたので、冬の寒さの厳しい頃は添い寝をして暖め、夏は涼しい所を選んで暑さを避け、その上、女ながらも田畑に出て耕作に励み、朝夕の食事は祖母の好みを聞き、出来る限りの看護をしました。

やがて祖母は80歳を過ぎた頃から歩行が不自由になりました。もんは常に祖母の側を離れず、起居にも心を配り、目を離さぬ日々が5年続きました。その後、祖母は89歳で天命を終えました。

もんの孝行ぶりは広く世間に知れ渡り、村民一同こぞって、地頭の山名熊五郎へその旨を届け出ました。文化9年(1812)12月、地頭より銀2枚を与えて、その孝心を称えました。その時もんは43歳でした。