外川神社 (とがわじんじゃ)
江戸時代から保土ヶ谷宿の内に出羽三山講がありました。幕末の頃、その講元で先達でもあった淸宮輿一が、湯殿・月山・羽黒の三山の霊場を参拝した際に、羽黒山麓の外川仙人大権現の分霊を勧請し、自分の屋敷内(現在の地)にまつりました。

はじめ外川仙人大権現と称しましたが、明治二年の神仏分離令により、日本武尊を
祭神と定め、社名を外川神社と改めました。その神験は著しく、ことに小児の虫封じや航海の安全に御利益があったとして、遠近から参詣する者が絶えませんでした。

外川神社 鎮座地:横浜市保土ヶ谷区瀬戸ヶ谷町196番地
御祭神
主祭神 :
日本武尊(やまとたけるのみこと)
配祭神 :
月夜見命(つきよみのみこと)
大山祇命(おおやまづみのみこと)
稲倉魂命(うがのみたまのかみ)
創 建
江戸時代末期に外川仙人大権現として創建
明治2年外川神社に改称 (平成6年9月 宗教法人認証)
御神徳
航海安全・交通安全・家内安全・児童守護・虫封じ
社 殿
本殿:銅葺入母屋造 拝殿:唐破風入母屋造
諸 社
道祖神社(江戸時代中期の建物 元は藁葺き)・稲荷社・宇賀神社(現在本殿に合祀)
祭礼日
例祭: 7月17日 (月次祭:毎月17日)
社 宝
明治時代の大絵馬数点
崇敬者
約800世帯 (氏子はありません)
社有地
約1000㎡
現在は神明社の所管社で、御造営の計画中です。
横浜市史稿:外川神社の條(時系列に疑問があります) → 【横浜市史稿・外川神社】

明治初期の外川神社社頭
昭和10年頃の外川神社社頭 (茶店が3軒ありました)
昭和10年頃の外川神社
昭和30年頃の外川神社境内 (右は稲荷社)
保土ヶ谷の外川神社付近の地図は → 【外川神社案内図】
山形の外川神社 (外川仙人堂)
外川神社の御本社、外川仙人堂は、山形県最上郡古口村、最上川のほとりに鎮座しています。その外川仙人堂には、幾つかの伝説が伝わっています。

①義経の従者常陸坊海尊(ひたちぼうかいそん)が、義経奥州下向の際、この地が気に入り
 義経の許しを得て留まり、仙人になったのをまつった。
②義経の従者弁慶が主君と別れて山伏修行をした御堂。
③常陸坊海尊が800年前に建立した。

地元では最上川水運の守護神として崇敬されています。古口から出る最上川下りの舟に乗るとお参りできます。(陸路ではお参りできません)

また仙人堂付近は、松尾芭蕉が「さみだれを あつめて涼し 最上川」 を 「さみだれを あつめて早し 最上川」 と考え直した画期的な場所としても注目されているそうです。
平成8年6月、保土ヶ谷町外川講中一同、外川神社の御本社である外川仙人堂に正式参拝し、
記念に拝殿の幕を奉納しました。 右はその時の写真です。
山形県の外川神社付近の地図は → 【外川仙人堂案内図】
保土ヶ谷の外川神社-お仙人さま考- (著者:青木友弥) より
外川神社について書かれた文献は少なく、「横浜市史稿」や「保土ヶ谷区郷土史」に僅かな記載があるのみでしたが、最近、保土ヶ谷町在住の青木友弥氏が昭和50年頃にまとめられた「保土ヶ谷の外川神社-お仙人さま考」の存在を知り、貴重な史料に出会うことができました。同書の構成は以下の通りです。

・外川神社の成立
・外川仙人日本武尊賽銭相渡帳
・外川安章先生の回答
・現存する石碑類
  湯殿山供養塔・大日如来像塔
  外川神社社号表・観明院碑・其他
・子供のすきな道祖神
・祟の稲荷様
・宇賀神社
・外川神社を支えた講中
・外川神社の見える風景
  藤原チカさんの話
  鈴木カヨさんの話
・境内には次の祠がありました
・お宮の近所には
・池田千代吉先生の話

そこで、金銭出納簿や過去帳の写しなどを除き、主要な部分を抜粋しました。
以下【紺色表示部分】が青木氏の原文です。
外川神社の成立(冒頭部分は省略) 勧請者・清宮與一について
名前
院号
続柄・俗名
享年
命日
又左衛門
梅光院
川嶋屋與一父
明和8年正月24日
1771年
與一
寿光院
川嶋與一事
文化6年3月3日
1809年
與市
観善院
俗名権兵衛
71歳
安政5年7月17日
1858年
與一
観明院
俗名権兵衛
70歳
明治37年10月15日
1904年
保太郎
楓暁院
65歳
大正5年10月26日
1916年
権十郎
清明院
50歳
大正11年10月6日
1922年
昭和10年2月9日
1935年

外川仙人大権現の分霊を勧請した清宮與一とはどんな人であったか、上の清宮家の系譜によりますと、表中「一」「二」は、保土ヶ谷町二丁目歩道橋下の「湯殿山供養塔」の背面文字中に出ています。「梅光院」は三山講の先達として、また子息の「寿光院」は願主として名を連ねています。「三」の與市「観善院」は神社の石碑中には名前の記載が見い出せませんが、この人こそ、羽黒山麓から外川選任大権現を勧請した人に違いありません。というのは後記のように、死亡日、7月17日を記念して大祭日と決めてあるのが何よりの証拠だと思います。(この見解は俄には賛成しかねます:飯塚) 「四」の與一「観明院」は、山頂にある大日如来像塔の台座に「保土ヶ谷宿四ヶ町直伝講山開人講元清宮與一事観明院」(明治二年再建)とあります。この人は、明治二年神仏分離令により神道を選び、「外川神社」と改称しました。

改称に当り、日本武尊を祭神とし、月夜見命、大山祇命、稲倉魂命を配祀しました。けだし、湯殿山の本地仏は大日如来であり、その垂迹は大山祇命、羽黒山の本地仏は聖観世音菩薩で、垂迹は稲倉魂命、月山の本地仏は阿弥陀如来で、垂迹は月夜見命ですから、お仙人さまの祭神を入れ替えて日本武尊とした時に、日本個有の神々をそのまゝ引継いで配祠したものだと推察出来ます。

神名
山名
本地仏(ほんじぶつ)
主祭神
日本武尊(やまとたけるのみこと)
配祭神
月夜見命(つきよみのみこと)
月山
阿弥陀如来(あみだにょらい)
大山祇命(おおやまづみのみこと)
湯殿山
大日如来(だいにちにょらい)
稲倉魂命(うがのみたまのかみ)
羽黒山
聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)

「五」「六」「七」の保太郎・権十郎・清、はいずれも社掌を勤めていましたが、清のころは、手元不如意となり、遂に経営の座からおりました。時の町会議員、本陣、有志等が協議した結果、現在のように保土ヶ谷町一、二丁目の自治会が、運営を引受ける結果になり、今日に及んでいます(その後、平成6年に宗教法人として認証されました)
外川仙人日本武尊賽銭相渡帳から
明治11年3月から翌12年8月までの賽銭明細を記した帳簿から、明治11年4月から翌12年3月までの賽銭収入合計額と外川神社の本社である山形県最上郡古口村の「外川山寿明院」への送金額を表にしました。

外川山寿明院への送金額 (単位:銭)
賽銭
送金額
割合
賽銭
送金額
割合
4月 257.95 26.60 10.31%
10月
368.96
36.85
9.99%
5月 387.90 39.60 10.21%
11月
349.35
33.50
9.59%
6月 357.05 35.75 10.01%
12月
324.47
32.44
10.00%
7月 315.35 32.13 10.19%
1月
565.45
56.47
9.99%
8月 422.25 42.25 10.01%
2月
512.67
51.27
10.00%
9月 168.71 18.70 11.08%
3月
564.95
56.54
10.01%
合    計
4,595.06
462.10
10.06%
*年間賽銭合計額4,595銭は約46円、送金合計額は約4円60銭となります。

当時は物価の変動が著しい時代であったため、貨幣価値について判断することは難しいのですが、明治初期と現在の物価を比較すると、およそ一万倍から二万倍程度と言われていますので、この頃の46円は現在の50万から100万円程度と考えられます。

帳簿の最後に次の一文があります。

一神奈川縣下保土ヶ谷□□□の清宮
 與市殿宅地分江外川仙人鎮
 座有之候ニ付貴殿御登ニ
 付御神事ノ儀御依頼申
 上候也    山形縣下
           
古口村 祠掌
                早坂寿郎
 明治七年十一月

 酒田縣下手向村
   山東長峰様

以下の通り、賽銭は毎月十七日を中心として、翌十八日から翌十六日迄を一括して、一ヶ月分の総額を算出する。
 一、総額の一割を羽前の外川山寿明院へ送る。
        四割を神社の修繕費として積立てる。
となっているが、羽前寿明院に送る金銭の性格がわからない。そこで、山形県鶴岡市の教育委員会に照会したところ、民俗学者戸川安章先生から次の回答がありました。
戸川安章先生の回答
外川神社は本県最上郡古口村にあり、最上川のほとりに鎮座、義経の家臣、常陸坊海尊(もと三井寺の僧)が、義経が奥州下向の際、この地が気に入り、義経のゆるしを受けてこの地にとどまり、仙人になったのを祀ったという伝説があります。最上川海運の守護神で、境内に水難守護を祈る石碑が数基建っていましたが、数年前の洪水で流され、今は一基か二基しか建っていません。古口から出る最上川舟下りの舟に乗ると、お参りできます。

その別当、寿明院は羽黒山の末派山伏で、維新後神職になりました。その社は、「羽黒道者錫杖のふりはじめの社」といわれていましたが、いろいろの伝説をもっています。なお、保土ヶ谷に分社のあることは、こんどのお手紙で始めて知りました。

明治七年の文書に、酒田県下手向村とあるのは、その頃は今の山形県が数県にわかれているからで、今の東田川郡羽黒町大字手向(トウゲと読む)のこと、羽黒山の門前街です。

東山長峰という人のことは判りませんが、手向には、山東の姓がありませんので、よそから来て羽前の三山神社に勤めていた人ではないでしょうか。   戸川安章

以上で、寿明院は外川神社の別当であったこと、寿明院が神職になったことで、保土ヶ谷でも自然に神社になった理由が判ると思います。
現存する石碑類 (この項は後日掲載します)
道祖神社 青木氏の原文では「子供のすきな地蔵尊(道祖神堂)」とあります。
以前はもっと元町寄りに鎮座してましたのですが、明治二十年頃、鉄道敷設のため、外川神社に移され、更に境内整理の為、現在地に移されたもので、今度こそは安住の地とお考へになっていると思われます。
稲荷社 青木氏の原文では「祟の稲荷様(「耕地の稲荷」ともいう)」とあります。
初めは、岩崎町の服部さんの屋敷内の神様でしたが、何の祟りか、不幸続きで困惑された同家では、服部季太郎さんにたのんで、外川神社の境内に移したものです。二月の初午の日が大祭日になっています。
宇賀神社
白蛇を神として祭祀したものだといわれています。七福神のひとつ、弁財天の別称であるともいわれています。その他色々の説があるが、これ等は弁財天と結びつき、弁財天と同神とし、あるいは、弁財天と夫婦神であるとしていることもあります。また、奇瑞を尊ぶ白蛇神と目され、さらに後世には稲荷と習合付会して狐の神という信仰まで生れて来ます。また 「 宇賀神のようにとも網巻いて置き 」 という古川柳もあるが、農漁村といわず豊作を祈るとして、宇賀神の信仰がありました。

外川神社には宇賀神の社のあった場所が残っている程度で、社の本体は見とどけることが出来ません。
外川神社を支えた講中
境内にある頌徳碑等からひろって見ました。

江戸年子講、羽田講、塚越講、川崎講、新丸子講、神楽講、横浜信仰人講、保土ヶ谷直伝講、
神奈川、今井、菅田、鴨居、講中。川島、三反田、戸部、講中。敬愛講、

これで見る限り、各地に可なりの拡がりがあり、信者の層が厚かった様子がよく判ります。
外川神社の見える風景
1.藤原チカさん(帷子町二丁目)
お仙人さまの縁日には、青い旗をたてた講の人が、保土ヶ谷駅からぞくぞく集まって来ました。いったいに講で参詣する人は、近在でなく、川崎、羽田、東京、塚口(埼玉)等の、遠方の人が多かったようです。

2.鈴木カヨさん(瀬戸ヶ谷町158) 
戦争前のお仙人さまは、さかんなものでした。今の国道筋、橋の手前には大きな鳥居があり、その左側には石崎屋さん、鈴木屋さん、橋を渡った左側に私の家があり、茶屋をしていましたので、都合三軒の茶屋がありました。くず餅、甘酒、線香等を売っていました。茶屋は赤い毛氈を敷き、奇麗にしておきましたので、お客様は多く御座いました。境内はすっかり変りましたが、以前は神社の裏山へ石段で登れるようになっていました。出羽三山をかたちどったものだそうです。中腹の高くなった所に、羽黒山、月山、湯殿山を祭った大日如来像と湯殿山の供養塔があり、その外にも何かあったようです。しかし、山崩れのため湯殿山供養塔は今井川に転落しました。今、保土ヶ谷町二丁目の歩道橋の下に再建されているのがそれだと思います。川の中に落ちて来たものには、なお、外にもあったようです。

お仙人さまの縁日は七月十七日が大祭で賑わいました。祭神は日本武尊となっていますが、実際は仏さまで、虫封じに御利益があるというので、私の店でも線香がよく売れました。虫封じのお呪いは、社務所の中に一坪程の祭壇を設け、日本武尊と、外川仙人大権現の祭神の前でお祀りしたのです。線香をたくさん、もやすものですから、保土ヶ谷駅を出ると匂ったという話がありました。
境内には次の祠がありました
1.おしゃもじさま
しゃもじが供えてあり、咳が出るとか、体が痛いとか、の時にお借りし、治った時に、
しゃもじ一本増やして二本にして返すというやりかたで、信心する人が多かったようです。

2.咳の神様
しゃもじ様の隣に祠があり、おしゃもじさま同様の方法で信心の人が多かったようです。
社掌(しゃしょう)
本来、お仙人さまは清宮家の持分なのですから、権十郎さんが亡くなった後は、清さんが継ぐのが当り前です。清さんは船乗りでしたが、あとを継ぐため船をおりて、戸部の杉山神社の神官大杉信太郎さんに作法を学びました。清さんは昭和十年に亡くなりましたが、その後は清宮家の人の手を離れて、当麻小太郎、大杉信太郎、今神明社在職の飯塚謙、戦後には佐藤さんと続きましたが、この頃から、お宮の管理は保土ヶ谷区の自治会に移ってしまいました。

清宮家の屋敷は、保土ヶ谷町一丁目、今の馬場製麺所辺にありました。うちのじいさんがよく賽銭箱をかついで行ったと話していました。
お宮の近所には
1.□堀 (□の字は調査中)
境内を流れていました。用水路で眼鏡橋がかかっており、立派でした。下流の人が手入をよくして呉れたので、清潔で蜆等がよく取れました。

2.一里塚 上方見付
鳥居の前にあったのですが、どうなったか今では見当もつきません。残念なことをしました。
池田千代吉先生の話し(先生の著書「横浜の芝居」序に代えて、の中より)
近くの小さなお宮の夏祭、線香の匂いがむせるほど漂っている社殿の横の神楽堂、ここ
で昼はお神楽、夜は年一回の芝居があったのです。それはまったく田舎芝居でしたが。
以上、昭和56年3月31日發行、保土ヶ谷区老連機関誌「かけはし」第20号の分を補訂をし、補訂にあたっては、池田千代吉氏から御指導をあおぎました。

参考 磯貝長吉『横浜市文化財調査報告書 別輯 土に探す』
以上、保土ヶ谷の外川神社-お仙人さま考- (著:青木友弥) より