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PDF:訳文・全文
1-31P
(1-82頁)
890KB
PDF:原本・其一
1-5P
(1-20頁)
2,640KB
PDF:原本・其二
6-10P
(21-40頁)
2,870KB
PDF:原本・其三
11-15P
(41-60頁)
3,020KB
PDF:原本・其四
16-21P
(61-82頁)
3,300KB

神明社に関する種々の文献によれば、当社には江戸時代以前から、伊勢神宮の御師(おんし)所縁の者が神主として常駐していたのではないかと推察されます。そこで、御師について記した「御師考證(おんしこうしょう)」を掲載します。御厨が成立する歴史的背景や御師の活躍ぶりなど、伊勢信仰の拡がりについて大いに参考になると思います。

   【御師】 一般には「おし」、伊勢では特に「おんし」と言います。
   【神宮】 伊勢神宮の正式名称は「神宮」です。

【御師考證】は、幕末の国学者・足代弘訓(あじろひろのり)が、8世紀から16世紀にかけての伊勢神宮に関する文献に基づき、御師たる者の心得をまとめた たいへん貴重な書です。しかしながら、未だ活字本がなく、その存在すらあまり知られていません。また、原本は手書きでくずし字混じりの上、難解な字句が多く極めて読みにくい体裁となっています。そこで、漢文体の部分を読み下し、注釈や振仮名を附した校訂版を作成しました。とは言いましても浅学非才の身、随所に頓珍漢な訳があるかもしれません。その節は原文に照らしてご判断下さい。
お気づきの点をご一報下されば幸いです。

では、本書を読む前の予備知識として、御師について簡単に説明します。

今日の伊勢神宮は、誰でも自由に参詣し、私的な祈願を込めて神楽を奉納することができます。ところが、古代はそうではありませんでした。皇祖神である天照大御神をまつることから、他の神社とは異なり、天皇以外の祈願は禁止され、皇后・皇太子でも天皇の許可なく幣帛を奉ることはできませんでした。

平安時代の末期、律令国家としての統制がゆるみ、各地に荘園が発生し、朝廷の財政基盤は衰え、朝廷直轄の神社であった伊勢神宮の経済状態も不安定なものとなりました。そこで、伊勢神宮の下級神職たちは、御師として全国各地へ出向き、崇敬者を獲得する活動を開始しました。彼等はそれぞれ一定の地域を分担して神宮の崇敬者と師檀(しだん)関係を結び、私的な祈祷を行い御祓大麻(おはらいたいま)を頒布して信仰を高め、神宮への参詣や領地の寄進をうながしました。そうした神領地を御厨(みくりや)や御園(みその)と呼び、東海から関東地方にかけて多く分布します。

室町時代から戦国時代にかけては、伊勢神宮が最も困窮した時代です。多くの神領地が略奪されたり納税拒否にあったりして著しく衰廃し、二十年毎に行われる式年遷宮を一時中絶するほど疲弊を極めました。当然、御師たちの収入の道も絶たれました。ところが、御師たちの活動は新たな収入源を求めて猶一層活発になったのです。その結果、全国的に大神宮や神明社が建てられ、これらを拠点とした伊勢講(神明講)も組織されるようになり、伊勢信仰がますます拡がって行きました。つまり、武家や庶民の間では、伊勢の神は現世利益をみたしてくれる身近な神として迎えられ、後世のお伊勢参り大流行に繋がることになったのです。「御師考證」はこのあたりまでの歴史について述べています。

本書は、古代から中世にかけての引用文献が大部分を占めています。わずか80頁ほどの小冊子ですが、全文を読破するためにはかなりの根気が要ります。そこで、特に注目するべき部分(面白い部分)を紹介します。

   なお、神明社の神主系譜については稿を改めて考察したいと思います。

私弊禁断(しへいきんだん)
5P
天皇以外の祈願が禁止されていた
源頼朝の御厨寄進状
5P
頼朝は伊勢神宮にたいする信仰が篤かった
北条氏康の書状
10P
現世利益の典型
織田信秀の書状
11P
信秀は信長の父 伊勢神宮の危機を救ったのは
実は各地の社寺を焼き払った信長だった
神木牒状(しんぼくちょうじょう)
13P
僧兵の神主バージョン
加増の例(かぞうのためし)
16P
この精神は今日の官僚制にまで引き継がれている
忌言(いみことば)
29P
僧侶たちにとっても伊勢神宮は特別な存在だった
太夫(たゆう)
29P
吉原の太夫と間違わないように

(Pは訳本の頁)

平成25年に第62回の式年遷宮が行われます。その意義や歴史については
伊勢神宮式年遷宮 広報本部 公式ウェブサイト」 をご覧下さい。